「あんたの本、出してあげたかったんやけど……」
「そうやてなあ、金広のおじさんに傘借りてそこで聞いたけど。わたし、省線(※鉄道省が経営した汽車または電車の路線。この時には鉄道省は運輸省に改編されていた)不通で鶴橋から歩いて帰ってん」
「よう鶴橋から帰れたなあ」
妙ちゃんはいたわってくれた。見れば髪はみだれ、顔は煤で真黒、目ばかりギラギラと光り、涙をためている。
「もう、しんどうてしんどうて……」
私は入口の水槽につかまったまま一歩も動けなくなってしまった。
「聰ちゃんが早う帰ってくれたんでなあ、助かったんや」
お祖母さんは、私の手から鞄を受け取り、
「まあ上って休み」
といった。すると向うからお母さんが見るもいたましい姿でやって来た。眉は暗く、眼には涙の跡がある。どろどろの破れ草履をつっかけ、汚れたもんぺに割烹エプロンという出で立ち。妹と妙ちゃんは、いち早く叫んだ。
「お母ちゃん、姉ちゃんが」
「聖ちゃん、帰って来やったで」
お母さんは、私をみつけて、見る見る眼をうるませた。
「聖ちゃん、家が……家がやけてしもうた……」
その声は涙で曇って鼻声になっている。私は不覚にも涙がこぼれた。
「あんたの本なあ、たくさんあったのが出してあげたかったんやけど、出すことが出来なんだ……」
「……」
美しい家は夢のように消えて
私は何にも言えなかった。鼻がじんと痛くなり、涙がぽとぽと水槽の水の上へこぼれおちた。
ああ、あの大きな、居心地のよい、ひろびろとした家。
生れて、そして18の年まで育った、あの美しい、古い家!
それが2、3時間の中(うち)に、夢のように消えて、灰になってしまうということが、あり得るであろうか。
私の夢を育んでくれた白い壁の3畳間の勉強室、立派な本の数々、美しいノート、ミシン、オルガン、蓄音器、机、椅子、文房具から日用品、衣類に至るまで、火はなめつくしたのか。それはあまりにもあっけない。
「それで何か持出したの」
「それがな、着るものは何か持ち出したけど、蒲団がなあ、1畳しか持出さずや……」
私はあの美しい蒲団をしのんだ。すべての点において、私には、あの家が焼けてしまったということが実感となってぴったり来ず、もどかしい感じだった。
お父さんも、私が帰ったと聞いて、濡れしょぼれた恰好で向うからやって来られた。
「そうか、帰って来たのか、家、焼けたよ。ははっは。これも戦争じゃ戦争じゃ、仕様がないわい。しかしこれで皆、無事に揃うて、まず目出度いとせんならん」
とお父さんは、快活に言った。私はたとえ、それが不自然であっても、しおれた皆を元気づけようとする心がうれしかった。