厳しい情報統制が行われており、隣国でありながら、謎に包まれている国、北朝鮮。

 そんな同国から脱北し、北朝鮮での生活体験について情報発信を続けるキム・ヨセフ氏が綴った『僕は「脱北YouTuber」~北朝鮮から命がけで日本に来た男』(光文社)が話題を呼んでいる。

 ここでは同書の一部を抜粋。キム氏が幼少期に味わった壮絶な体験について紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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10歳で路上生活になった僕

 僕は1985年、朝鮮民主主義人民共和国の北東部、咸鏡南道(ハムギョンナムド)のとある村に生まれた。上には姉が3人おり、僕は両親にとって待望の男の子だった。

 すでに世界のメディアで報じられているとおり、北朝鮮は首都である平壌(ピョンヤン)と地方都市ではまるで別の国であるかのような格差があった。禿げた山と痩せた畑、どこまでも広がる荒野を背景に、乏しい物資を持ち寄って売るチャンマダンと呼ばれる市場。それが地方の光景のすべてだった。

写真はイメージ ©iStock.com

 我が家も貧しく、平壌には一度行ったことがあるが、我々のような地方の民とは無縁の場所だった。生活が完全に崩壊したのは、10歳くらいの頃に母親が亡くなってからだった。

 当時は金日成が死去したばかりで、ソビエトや東欧をはじめとする社会主義国家が崩壊した余波に、アメリカによる経済制裁と国内の経済失策と大洪水が重なり、建国以来最大の飢饉が訪れていた。

 北朝鮮は1996年元日の『労働新聞』の共同社説でこれを「苦難の行軍」と呼んだ。語源は1938年、金日成のパルチザン部隊が日本軍の追撃を逃れ、飢えと寒さに苦しんだ100日間の行軍にあるとされる。これにより、1999年までに300万人以上が餓死したとも言われている。

 母は家族を養うため、米などの物価が比較的安い軍事境界線近くの黄海道(ファンヘド)まで遠出していたが、ある日、帰りの列車の中で亡くなった。幼かったので詳細は思い出せないが、栄養失調によるものだったと思う。

 ほどなくして姉達も飢えてまともに歩くことができなくなり、次々と亡くなった。父もどこかに消えてしまい、残された僕と2歳離れた弟は路頭に迷うことになった。

 父の友人の家に世話になったり、止まっている電車の中に入り、食べ物を拾ったりもした。凍える冬の駅の片隅で弟と2人、肩を寄せ合いながら、明日は生きられるのだろうか。この夜を越せるのだろうか……と毎晩恐怖にかられていた。

 路上は、餓死した人の死体で溢れかえっていた。