罪を犯したら死ぬのが当たり前と洗脳され
牛泥棒の場合、牛1頭で禁固10年、ひどいときには死刑に処せられる。私有財産という概念が存在しない北朝鮮では、機械の代わりに集団農業を支える牛は国家財産そのものであり、それを盗んだ罪は非常に重かった。
電線窃盗は当時増えていた犯罪だ。電線の中の真鍮を売るとかなりのお金になることもあり、厳しい経済状況の中、窃盗被害が相次いでいた。民家に繫がっている電線を切って盗むならまだしも、工場に繫がる電線が切られてしまうと国家事業が成り立たなくなる。そのため、目立った被害があったときは、見せしめのための公開処刑が行われていたのだ。
僕の目の前にいる死刑囚は、どうやら数百㎏以上もの電線を盗んだようだった。
安全員に判決文を言い渡されたあと、「言い残したことはないか」と問われた死刑囚は、縛られた状態で自分の足下だけをじっと見ていた。
若い安全員が3人ほど銃を構え、死刑囚の5~10m前に進んだ。皆が見守る中、それぞれが3発ずつ死刑囚に向けて弾を撃ち込んだ。
最初の1発が撃たれ、死刑囚が頭を垂れた瞬間を覚えている。意識を失ったのか、死んでしまったのかはわからない。それを確かめる間もなく、2発、3発と乾いた音が鳴り響いた。
計9回の銃声のあと、安全員が死刑囚の死亡を確認し、死体を布のようなもので巻いて車にのせると、見ていた人たちは解散し、自分たちの家へと帰っていった。
僕の心にわきあがったのは、恐怖でも同情でもなく、「ああやって人は死ぬんだな」という感情にも満たない感想だった。
罪を犯したら死ぬのが当たり前。そんなふうに洗脳されていたため、かわいそうとも怖いとも思わなかった。人が死んだ。ただそれだけだった。