路上生活となったと同時に、学校には行かなくなった
学校の近くに住んでいる子は自宅で昼食を取り、弁当を持ってくるのは2㎞以上離れた場所から来る子だった。中身は黄色いとうもろこしご飯がメインで、アルミの弁当箱に3分の1ほど、味噌を加工したおかずなどを詰めていた。裕福な家の場合は卵焼きや豆腐を焼いたもの、キムチやたくあん、そして白米が入る。
主食の色が白色か黄色かが豊かさを表す基準だった。
配給される主食の3割は白米で7割がとうもろこしだったが、白米は優先的に世帯主が食べ、一部を節約して祝日や誕生日に皆で食べたり、餅を作ったりした。
母が魚売りをしていたので、正月の朝5時頃に一番大きなタラを5本持って担任の先生に挨拶をしに行くと、お返しに「これをポップコーンにして食べて」と、干したとうもろこしを2㎏ほどもらった記憶がある。
学校では「少年団」という組織があり、2月と4月、そして少年団の創設日である6月6日に入団式が行われる。学校で一番優秀な子や、供出物を真面目に出した子は早く入団できる。僕は2月と4月に入れず、6月に入団した。供出物はウサギの革などで、調達するのが非常に難しく、僕の家はきょうだい5人で3枚ずつのノルマだったため、すごくお金がかかっていた。
また、スポーツ専門のクラスがあり、体育教師がグラウンドの走り方で生徒を選別していた。僕は走り方が変だということで、そのクラスには入らなかった。
結局、父が姿を消して路上生活となったと同時に、3年生で学校には行かなくなった。
小学生のときに目撃した公開処刑
まだ小学校に通っていたある日、学校が終わって家に帰ってきたところで、人民班長(村長のような存在)から「公開処刑があるから集まりなさい」と声をかけられたことがあった。
大人たちと一緒に近所の広い畑に行くと、そこには数百人もの人が集まっていた。その中には僕のような子供もいた。
死刑囚を囲むように安全員(警察官)が数10人おり、その中の1人が判決文のようなものを読み上げた。罪状は電線窃盗罪。当時の北朝鮮では、牛泥棒と電線窃盗の犯人には、反逆罪や殺人罪さながらの重い処罰が科せられていた。