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盗むか拾う以外に食べ物を手に入れることはできなかった

 それらがモノのように無造作に集められ、穴に埋められていく光景を見慣れていくと、「また人が死んだ」としか思わなくなった。自分はまだ死んでいないだけ。そのような感覚だった。

 何でもいいから、腹いっぱい食べたい。

 人々も「腹いっぱい食べて死ねれば、それ以上のものはない」と言っていた。

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 当時あった数少ない食べ物といえばチャルトックやソンピョン(朝鮮の餅の一種)、「ソットジョンカル(速度戦粉)」と呼ばれるとうもろこしの餅粉、クッス(うどん)など。

 だが盗むか、拾う以外に手に入れることはできなかった。

 清津(チョンジン)~平壌の列車が停電で1日、2日止まると、駅の近くに食べ物や顔を洗うお湯を持ってくる人たちがいる。その人たちが持っている食べ物を、子供たちが盗んで逃げる。他人が口に入れようとしたところを奪ったり、こぼした麺を足元で拾って食べたり、ビニール袋に入れて捨てられたパン、道に落ちているもの、とにかく食べられるものはすべてかき集めて腹に入れていた。

 山に行って動物を狩ることもあった。民家の家畜を盗んで、焼いて食べたり、集団農場で農作物を盗んだり、それを売ったりして命を繫いだ。

小学校での思い出

 路上生活となる前まで、僕は小学校に通っていた。北朝鮮の小学校は4年制で、他国とは違い、教育が無料である代わりにさまざまな物資を供出させられる。アルミや真鍮、使っていない紙などだ。

 僕の学校では放課後、学校で飼っているウサギの草を山まで採りに行かされた。分量は学年ごとに定められており、それを納めたらようやく帰宅することができる。規定の分量をどうしても採れず、石を入れてごまかしたこともある。それがばれると、もう一度行かされてしまうのだが。

 分量は学年が上がるごとに増え、アルミの場合は、1年生のときに100gだったのが2年生になったら200gになったりもした。調達できない場合は買ってでも出したが、買えない場合は親が学校に呼び出され、国と党への忠誠心が足りないと批判され学校で不利な立場に追いやられることになる。一応は義務教育のため、学校をやめさせられることはないが、暖炉の薪を作らされたり、さらなる負荷を与えられた。中学では、それに加えて農村支援などにも行かされる。

 帰宅後は、紙を使った遊びや、釘で円を描いて円の外に出すような遊びで暇を潰した。

 小学校生活での楽しみは、金日成と金正日の誕生日であるそれぞれ4月15日と2月16日に、お菓子やゼリーが入った袋がもらえることだった。年2回のお楽しみという感じだった。もらったら、祖父母に渡しに行っていた。

 教室には暖炉があり、そこに薪をくべ、アルミの弁当箱を上に置いて温める。昼食のときは友達とおかずを交換したりした。