北朝鮮に未来はないと確信
僕の知っている北朝鮮人は皆、民間人も軍服のような地味な服装をしていたが、国境地帯にいる人々はこれまで見たことのないようなカラフルなファッションを身に纏っていた。密輸をしている人々の家には、金持ちの家でしか見たことのないカラーテレビやオーディオ、炊飯器など最先端の家電があった。中国側の道路にはたくさんの自動車が走っているのが見えた。
中国の電波を使った携帯電話で海外と通話ができることにも驚いた。僕は携帯どころか有線の電話もほとんど使ったことがなかったし、北朝鮮では海外と連絡をとる手段は国際郵便しかなかったのだ。
目の前に広がる信じがたい光景に衝撃を受けた僕は、このとき脱北の決意を新たにした。
「この国(北朝鮮)に未来はない」
そう確信したのだ。
そして、国境地帯に着いて2日目、ブローカーの携帯電話を通じて父と8年ぶりに話をした。父は、僕を本当に息子なのかと疑っていた。だが、無理もない。10歳の頃の僕しか知らない父が、電話の向こうの声変わりした青年が息子であるとはにわかに信じられなかっただろう。
知らない男たちがやってきた
決行までには時間を要した。年末に行われる特別警備が緩んだら行こうということになり、10日間ほど国境地帯にあるブローカーの家に滞在して機をうかがった。
ブローカーは2人だったが、彼らは賭博のようなものをやっていて、家に帰ってくることは稀だった。家の中には、ブローカーの遠い親戚だという男女の子供がつねにいた。
川を渡る指示があっても、結局動かない日もあった。毎日が緊張の連続だった。長引くほどに捕まる可能性は高くなる。2000年代は脱北者が増え、それにともない国境地帯の宿泊検閲が厳しくなっていた。他地域から来た宿泊者は身分証をチェックされ、宿泊目的を問われる。国境地帯の人々の方言とイントネーションが違うと「どこから来た?」と厳しく追及された。
ろくに眠れない日々を過ごし、いつ来るかわからない決行の指示をただひたすら待った。時間が恐ろしく長く感じられた。
そして2004年1月3日、ブローカーから3度目に「今晩、川を渡る。昼に仲介者が来るから待っていろ」と言われた日。
ドアを叩く音がしたので、一緒にいた子供が「誰ですか?」と聞くと、「ブローカーの友達だ」と言う。子供がドアを開けると、そこには見覚えのない、北朝鮮製のコートを着た3人の男が立っていた。1人の男が僕の名前を呼び、「彼に会いに来た」と言った。