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僕の最初の脱北の旅は終わった

 残りの2人も中に入ってきたとき、僕は彼らが保衛部であることを悟った。

 何らかの理由でブローカーが捕まり、司法取引として僕の居場所を教えたのだろう。

「俺たちと一緒に行こう」

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 彼らは僕の服装まで把握していて、部屋の中にあったコートを指して「これは君のだろう」と言った。

 そこで僕の最初の脱北の旅は終わった。

 脱北に失敗した人間がどのようなひどい扱いを受けるのかは知っていたため、もちろん恐怖はあった。しかし、緊張にかられて眠れなかった長い長い日々がようやく終わったのだという安堵感があった。あとは運命に委ねようという気持ちだった。

 ブローカーも本来は、そう簡単に脱北者の情報を保衛部に売ったりはしない。

 だが、自分が生きるために「これまで手引きした人間を教えろ」と圧迫されれば抗えない。それは仕方ないことだ。

 彼らにその場で賄賂を渡していたら結果は違っていたか? と言えば難しい。

 保衛部の人間1人だけを丸め込むならなんとかなるかもしれないが、逮捕に至るまでのケースは保衛部内部にまで情報がいっているため、覆すことは難しい。相当の額をもってしないと厳しいだろう。

息をすることだけが自由だった留置所

 逮捕されたあとは待機室に送られ、そこで1日半ほど、ずっと立たされたのち、白頭山のふもとにある留置所に送られた。留置所は、冬にはマイナス26度にもなる場所にある。

写真はイメージ ©iStock.com

 入る前には服をすべて脱がされ、持ち物を確認される。女性は性器にお金を隠していることもあるため、陰部まで調べられてしまう。もはや人間とはみなされず、動物のような扱いだった。

 留置所がある建物はコンクリート製のL字形で、2階に事務所と取調室があった。

 1階の留置場には10畳くらいの部屋が2つあり、男女別に分かれていた。そこに中国から強制送還された脱北者が数十人集められ、看守が後ろから監視する中、手を膝の上に置いて胡座をかかされた。

 その体勢のまま微動だにしてはならず、言葉も発してはならない。自由に動けるのは2時間に10分の休憩のときだけだ。それが朝食後の朝7時頃から就寝時間の夜10時まで続く。

 そこでは、息をすることだけが自由だった。

 頼めばトイレに行かせてくれる場合もあるが、休憩時間まで待たされることもあった。ひと晩のうちに窓に1㎝の厚さの氷が張るほどの極寒の中、すぐに尻が痛くなり、足の感覚が消え、しもやけになっていることに気づかないほど過酷な環境だった。