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77年、運命の夏

乗客のほとんどがロシア人、幻の東京―下関“弾丸列車計画”…大日本帝国の絵はがきと綴られた言葉

乗客のほとんどがロシア人、幻の東京―下関“弾丸列車計画”…大日本帝国の絵はがきと綴られた言葉

『絵はがきの大日本帝国』より#1

2022/08/15
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 満鉄が経営基盤とする交通網はどのように広がったのか。三枚の絵はがきを比べると理解しやすい。1934(昭和9)年2月1日の「満洲鉄道図」では、鉄道網と呼べるほどの路線は発達していない。大連と新京を結ぶ看板列車だった急行「はと」のマークを描き、満鉄1129・1キロ、満洲国有鉄道3371・1キロとある。赤線が満鉄、黒線が国有鉄道(満鉄に委託経営)、白黒交互の帯線(満洲国内)が北満鉄道を示す。

1934年の満洲鉄道図(「ラップナウ・コレクション」より)

 だが、北満鉄道はソ連の経営だ。路線図を見ると、満洲里から綏芬河がまで東西を横断する西部線・東部線(本線)と、ハルビンから南下して新京に至る南部線(支線)が描かれる。全長1721・4キロに及び、ウラジオストク―モスクワ―パリに至る大陸鉄道の一部を成していた。

 満洲全体から見ると、鉄道路線の4分の1近くがソ連の東清鉄道で占められ、その存在は大きい。日本と満洲はソ連との無用な衝突を避けるため、北満鉄道の買収交渉を進めていた。そして、1935(昭和10)年3月23日、満洲国とソ連の協定が成立し、北満鉄道はソ連から満洲国へ譲渡された。

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満洲とは満鉄であり、満鉄とは満洲だった

 1936(昭和11)年3月1日の「満洲鉄道図」では、この北満鉄道が国有鉄道として記される。実は最も主張したかった部分だ。急行「はと」に代わって、新しい看板列車「あじあ」を描き、「平原を截つ新流線」と謳う。赤線の満鉄線は、連京線(大連―新京間)や安奉線(奉天―安東間)など、七線を中心に総延長は1129・1キロと変わらない。一方で国有鉄道は1934年時と比べて倍増し、6793・8キロに達している。

1936年の満洲鉄道図(「ラップナウ・コレクション」より)

 1940(昭和15)年11月1日の路線図では鉄道と自動車路が詳細に記される。満鉄の鉄道総局自動車局による発行だ。「楽土に遍し国営自動車」と謳い、赤線で示すバス路線は2万5000キロに及んだ。

1940年の路線図(「ラップナウ・コレクション」より)

 短期間のうちに満鉄の交通網は隅々まで行き渡るようになった。満鉄の経営と巨額な投資があっての成果だ。満洲とは満鉄であり、満鉄とは満洲だった。とにかく満鉄の手がけた絵はがきは数多い。有効な宣伝媒体として絵はがきを活用し、絶対的な存在としての満鉄イメージを創り上げていった。