観客は父といっしょに落ちこまずにはいられないが、映画はこの父娘を結びつけるために、さらなる驚きの展開を用意している。気になる方はぜひ映画をご覧になってほしい。
ヴィンフリートはイネスの生き方すべてを否定しているわけではなく、またイネス自身も父の奇行をきっかけに価値観を根本的に変えることはないのだが、少なくとも自分の生活や人間関係のあり方を考え直すことになる。それはたぶん、ヴィンフリートが「ウザいこと」を恐れずに、イネスと関わることを諦めなかったからである。
いち映画好きとしては、「なんでこんな邦題にしたんだろ?」と日本で公開される映画の題名に反発を覚えることもままあるのだけれど、僕は『ありがとう、トニ・エルドマン』というタイトルが大好きだ(原題はシンプルに『トニ・エルドマン』)。映画が終わったあと、身体を張った愛とユーモアで大切なひとに想いを届けようとしたトニ・エルドマン氏に「ありがとう」と心のなかで告げずにはいられないから。
いまこそ、おっさんが若者とフラットに接するチャンス
もしかすると、世のおっさんたちは年長の男という社会的な役割を自ら背負っているためにこそ、偉そうなアドバイスを繰り広げてしまうのかもしれない。彼らはいまよりもおっさんのアドバイスが価値を持っていた時代に育っているからだ。オレもいい年になったんだから、若者に何か含蓄のあることを言わなければ、と。それが時代と合っていないことに気がつかずに。
だが、その価値が失われているいまこそ、おっさんにとって逆にチャンスだと僕は思う。「年長の男」であることを引き受けなくてもいいと思えれば、彼ら自身ももう少しラクになるのではないか。本当に伝えたいことがあるのならば、じつは「ウザいこと」自体はそこまで恐れるべきことではないと僕は思う。
ただ、そこで求められるのは、社会的な役割を一度リセットしたフラットな立場から相手をひとりの人間として尊重し、ときに悩み、落ちこみながら、いっしょに解決法を探していくこと。そのなかではじめて、世代の異なる人間による「アドバイス」は力を持つのではないだろうか。
まあトニ・エルドマン氏の例は極端だけど、彼の「変装」というアイデアからは盗めるものがあるかもしれない。「上司として」「父として」「目上の人間として」若者に向き合うのではなく、まったく別の個人として当人に向き合ったらどう考えるか、一度想像してみる。すると、自然と「年長の男」の役割から降りることができるだろう。
おっさんは偉くなくてもいい。ということを自覚したおっさんからの芯のあるアドバイスには、やっぱり耳を傾けたいと僕は思う。たとえそれが、少しばかりウザかったとしても。