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 そしてジャンプしてドシンと地面を揺らし、木々の葉から雨粒を一気に落とすと、傘を豪快に鳴らす(宮崎はインタビューでトトロはこの傘を楽器だと思っている、と説明している)。

 ここでは傘を鳴らす雨だれの音という日常的な音を通じて、逆に「ありえないものの実在感」が立ち上がってくる。ここでも聴覚がすこし普通ではない世界の入り口を開いているのだ。

 このように(視覚的な愛嬌はもちろんのこと)触覚と聴覚を通じて実在感を喚起することで、トトロは観客の心の中に実在のものとして住み始めるのだ。

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リテイクされた映画のキャッチコピー。もともとは…

 本作のキャッチコピーは、コピーライターの糸井重里が手掛けた。糸井が最初に書いた『となりのトトロ』のキャッチコピーは「このへんないきものは、もう日本にいないのです。たぶん。」だった。しかし、これはリテイクすることになった。糸井はこう語る。

「現実には、もういないんじゃないかと、ぼくなんかは思うわけです。ただ宮崎さんが『そうかもしれないけれど、いると思って作りたい』とおっしゃって、確かにそう思っていないと映画は作れないと思ったんですよね。(中略)でもやっぱり『たぶん』はつけざるをえないんですね」(「アニメージュ」1988年5月号)

「トトロはいると思って作りたい」という宮崎の意見が反映され、キャッチコピーは「このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。」という形に改められた。

 

「いない」と「いる」そして「たぶん」

 ここまで見てきたように、確かに映画はトトロが実在のものとして感じられるように、触覚と聴覚の描写を積み重ねている。「いない」ということは、その実在感をキャッチコピーが裏切ることで、映画の大事な部分が損なわれてしまう。

 一方、糸井が「たぶん」とつけざるを得ないという気持ちも想像がつく。本作が公開されたのは昭和の末期、しかもバブル景気のさなかでもある。

『となりのトトロ』の舞台は、そこからおよそ30年以上前の「テレビがまだない時代」(テレビ登場以前というより、本格的普及前の昭和30年代初頭以前と考えるのが自然だろう)であり、当時の観客の感覚からするとあまりに遠い昔の物語なのである。

 だからこそ「信じられないかもしれないけれど」という姿勢を「たぶん」という言葉に託すことで、逆説的にトトロの存在のリアリティを担保しているのだ。