――サーフィン関係者のなかでは、彼の強さはやっぱり「カリフォルニアという本場で生まれ育ったから」と言われています。
勉さん もともと夫婦それぞれ都内の会員制フィットネスジムでインストラクターをやっていたのですが、本場はやはりハリウッドなんですよ。ムービースターを目指す俳優が多く、彼らにはオーディションに備えて身体を鍛える風潮があります。そのため新しいメソッドが生まれやすく、研修目的で行く日本のインストラクターもたくさんいました。
そこで、「インストラクター向けの宿泊施設を作ればビジネスになるかも」という構想が生まれて。妻の「行けばどうにかなるよ」という言葉に背中を押されて、憧れの地へ移り住みました。
「6歳の頃に大会初出場で優勝」ビーチの“天才少年”
――最初はカノア選手の教育のための移住ではなかったんですね。
勉さん そうですね。だから移住後の拠点はハリウッドで、カノアもそこで生まれました。ただ夫婦ともサーフィンは熱をいれてやっていたこともあり、移住するなら「子供は世界レベルのサーファーに育てたい」と思っていて。カノアが生まれたことをきっかけに、米国サーフィンの聖地であるハンティントンビーチへ引っ越しました。
――アメリカのサーフィン界でトップになるということは、世界のトップになるのと同じですよね。
勉さん ハンティントンビーチは世界指折りのサーファーがゴロゴロいましたから。それだけに、チャンスは多かった。ハンティントンで開催されたコンテストに、カノアが6歳で人生初出場したら優勝したんです。その様子を有名サーフショップのチームマネジャーが見ていて、「スポンサー契約をしよう」と声をかけてくれました。「ブランドはどこでも紹介するよ」と。
――突如現れた“スーパーキッズ”がすぐにグローバル契約できるなんてすごいですね。
勉さん そう。ハンティントンは業界人が常にアンテナを張り巡らしている場所だから、大きなチャンスがゴロゴロしている。だから、「ウェットスーツはオニールがいい」と言ったんですね。いいウェットスーツだから、というのもありますが、一流のサーファーたちとスポンサー契約をしていたので、カノアの今後にとってもいいんじゃないかなと。当時のオニールには、次世代のワールドチャンピオンと言われていたハワイの英雄、ジョン・ジョン・フローレンスがいましたから。