――ということは、荒木師匠がジュリ扇の発明者?
荒木 そういうことになりますね。ただ、ディスコで扇子を使うということ自体は、それ以前にもあったんですよ。男性が日の丸の扇子を振って、宴会芸のようにふざけながら盛り上げるみたいな。
私のジュリ扇は暑さ対策でもあったし、音楽に合わせて踊るというステージ性もあったから、段々と広まっていって、自分のボディコンの色に合わせたジュリ扇を持つ女性が増えていった。私も『ジャン=ポール・ゴルチエ』というブランドが流行っていて……スーツの裏地が般若心経だったりしてカッコ良かったから、負けじと般若心経の扇子を持って踊りまくっていましたね。
――般若心経!
荒木 そもそも当時って、扇子が売っている場所が和装小物屋さんぐらいしかない。5000円くらいするから、ジュリ扇のコストって高かったんですよ。今だったら100円ショップがあるから便利だけど、あの時代はないからね。黒いボディコンにしっぽを付けて、悪魔の角みたいなものを自作して踊ったこともあったけど、100円ショップがあったらもっと手軽にいろいろとアレンジできただろうなって思います。
ジュリアナブームとその終焉
――目立ちたい気持ちって、やっぱり「負けたくない」的な心理が働くがゆえなんですか?
荒木 日本人って、周りがやってると、自分もやらなきゃと感じる人が多いでしょ? ジュリアナでは、「自分もやらなきゃ」の波に乗っていない人は、ダサい人の烙印を押されるような気がする――、そういう伝播の仕方だったと思います。
今はWeb 3.0の時代とか言われているけど、当時は1.0時代。一方的に出されたものを受け取って喜ぶしかないわけですよ。発信する側と受け取る側が、ある程度固定されている時代だったから、「よくわからないけど、なんか流行ってるらしいよ」でどんどん周りに伝播していくわけ。そういう雰囲気がジュリアナブームにつながったんだと思いますね。
――一方通行の時代だからこその熱狂……、ちなみに荒木師匠がジュリアナ的な文化の終焉を感じ始めたのっていつくらいだったのでしょうか?
荒木 下火だなって感じたのは、けっこう早い段階からですね。どんなディスコもだいたい3カ月ほどで流行り始めるんですよ。その後、半年ぐらいでピークに達して、そこからは下がる一方になる。下がるというのは、どういうことかというと、まず客層が下がり始めます。集客が下がるんじゃなくて、客層が下がる。客層が下がると、引っ張られる形で集客がどんどん下がっていく。必ずそうなりますね。