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 でも結局、カメラマンさんに「スナップ写真を掲載するのに、学校に許可を取ったりしなくちゃいけないから」というもっともらしい理由を言われたので、家電(いえでん、自宅の固定電話)の連絡先を教えたんです。

 それからしばらくは連絡がなかったんですけど、あるとき、「芸能プロダクションの人と会ってみない?」と電話がかかってきて。

――プロダクションの人に会いに行ったんですか?

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山田 いや、自分で電車に乗って足立区から都心に出かけるのは、そんな気軽にできることではなかったので。そのときは「行けないです」と断りました。

デビュー当時の山田まりやさん

「母親と弟と一緒に家を出て、父親から離れる方法を探さないと」

――そこからなぜ、芸能界へ入ることになるのでしょうか。

山田 私の父が、家でお酒を飲んで暴れる人で、当時はそれが日に日にエスカレートしている状況でした。父親がフォークを投げたりしてくるから、家で落ち着いてごはんを食べたことがないくらい酷かった。

 私はそういう家庭環境で育ったので、ずっと「母親と10歳下の弟を守らなきゃいけない」という思いを持っていました。だから自分の進路を考えたときに「のうのうと高校に行っている場合じゃない。何とかして母親と弟と一緒に家を出て、父親から離れる方法を探さないと」って考えていたんですよね。

 そんなときに、カメラマンさんと芸能プロダクションの人からまた連絡が来るようになったんです。「レッスンとかしているから、体験だけでも来てみない?」と言われたので、「もしかしたら、芸能界に入れば家を出るきっかけになるかもしれない」と思って、行ってみることにしました。

幼少期の山田まりやさん

――先ほど「家がゴタゴタしていた」とおっしゃっていたのは、そういうご事情だったのですね。

山田 そうなんです。そして、そのレッスンに通っているときに、イエローキャブの野田(義治社長・当時)と出会うことになるんですよね。

 たまたまその事務所の社長と知り合いだった野田がレッスンの見学に来ていて、カメラマンでもないのになぜかレッスン中の女の子たちを呼び出して、一眼レフで撮影し始めた。コワモテの風貌で、容赦なく「おい、コラッ。早くしろ」って女の子に指示を出すから、最初会ったときは「なに、この厚かましいおじさん!」と思っていました。

 しかも野田は、ほかの女の子のときは何回もシャッターを押していたのに、私のときは1回しか押さなかったんですよ。「なぬー。私には魅力がないということか」と思いましたね。