先日、授業で「岡田利規」の名を出した途端、大学生たちが激しく反応した。「要するに、自分らの現在地が分かるっつうか」
舞台『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』の上演も近いとかで、SNSの戦場を生きる彼らは、これも絶対、見逃せないようだった。
若者だけではない。イラク戦争直前に渋谷のホテルにこもる男女を描いた『三月の5日間』の公演は一躍海外でも注目され、同名の小説を収めた最初の作品集を読んで以来、評者とて2冊目を待っていた。
15年ぶりの新刊『ブロッコリー・レボリューション』、その5編中、三島賞を受賞した表題作がやはり最もこの作者らしい。ある朝バンコクへ無断で旅立った女性の、現地での滞在記で、何かが起きるわけではない。ただ、それを語るのは東京のマンションに置き去りにされた暴力的な夫。〈ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども、きみは〉と繰り返しながら、妻が一人心ゆくまで眠り、スコールに打たれ、通りの店でカオマンガイを味わう……そのいちいちを妻に成り代わって伝え続ける。
いつのまにか相手の内面まで一人二役で語り出す、劇作家、演出家ならではの自由な発想。でもなぜ、そんな複雑な手続きを? 理由はバンコクに住む女友達と妻が、旧市街で酔いを深めて「人類総ツーリスト化計画」を膨らます辺りで分かってくる。
〈世界がまるで見えていないから。絶望的なまでに無知で、賢くなくて、そしてなにより鈍感だから。恥ずかしいよね〉。今度はタイ人女性の語りを借りて、夫は一転、冷静な賢者となる。お気楽な妻への批判は私たち日本人の胸にも突き刺さる。
二重三重に視点を設ける語りは、つまり批評の余地を拡げるためだろう。それは「黄金期」という短編も同じで、場所は果てしなく改装を重ねる横浜駅中央通路。液晶画面に集中して密をやり過ごす群衆の中、嗚咽してうずくまる太った若い男がいる。その男を同じ種族だと直観し、何時間も通路でつぶやき(ツイートし)続ける少し年上の男。この情景を俯瞰して語る神の如き声。時代に順応するのをやめた少数の革命家らの声が、いつしか路上で共鳴し始める。
思えば震災も原発事故もオリンピックも。世界の現実は次々に作者の虚構に呼び込まれてきた。能の様式を応用した戯曲集『未練の幽霊と怪物 挫波(ザハ)/敦賀(つるが)』(2020年)では、幻の国立競技場の設計者ザハや高速増殖炉もんじゅまでシテ(語り手)に据え、日本の病巣を抉(えぐ)った。〈どんな気分がする? 衰弱に向かう国の若者でいるというのは〉と。
そこまで貶(おとし)められても、岡田の言葉を求める若者は本作で確実に増えるだろう。年長者としては、それを希望の根拠とするだけだ。
おかだとしき/1973年、横浜市生まれ。演劇カンパニー・チェルフィッチュを主宰。2007年刊の初の小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』で大江健三郎賞を受賞。
おざきまりこ/1959年、宮崎市生まれ。批評家、早稲田大学教授。来月、評論『大江健三郎の「義」』を刊行予定。