『とんこつQ&A』(今村夏子 著)講談社

 嘘や隠し事、あるいは作り話を日常に持ち込むとき、人の心はどのように動いているのだろう。

 明確な悪意からではなく、むしろ、何かを求めたり守りたかったりする切実な思いが狂気を帯び、人に嘘をつかせる過ちの瞬間を、とりかえしのつかないことになっていく「場」の光景を、『とんこつQ&A』は4つの物語で描く。

 表題作の主人公・今川は、真面目で愚直で勤勉ではあるけれど、極度に内気な性格の持ち主。ある日、町の小さな中華料理店「とんこつ」でアルバイト募集の貼り紙を見かけ、店が自分を呼び寄せているような直感を得る。

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 けれどいざ店に立ってみると「いらっしゃいませ」さえ言うことができない。ただ、書かれた文字を読むことならできると気づいた彼女は、よくある質問と回答をまとめたノートを作り、該当項目を読み上げるという方法で仕事を覚えていく。お待たせでーす。空いてる席にどうぞー。うーん、何でもおすすめですけど、一番よく出るのはやっぱ餃子かなあ。

 ここまででも日常の光景としては十分にいびつなのだけど、書き手は今村夏子である。新人従業員・丘崎の登場で、穏やかに忍び寄ってきていた不穏は一気に加速する。

 丘崎に、亡き妻・亡き母の面影を重ね見た大将とぼっちゃんは、彼女専用のノート制作を今川に願い出る。自分の座を奪われる不安に駆られながらも、今川はノート上で丘崎を「おかみさん」に、3人を「家族」に仕立て上げていく。

 創作は次第に現実を侵食し、嘘にも血が通い出す。何を読んでも棒読みだった丘崎も、Q&Aが3000を超える頃には、本当のおかみさんの経験をまるで自分がしたことのように語れるまでに成長する。ノートがなければ「家族」ができない彼らにとって、今川の存在は必須。かくして彼女にもゆるぎない居場所ができた。今川が「とんこつ」で働きだして、今年で7年になる。怖いよ。

 嘘をついた自分を庇護するあまり現実から見限られてしまう「嘘の道」も、慈愛に勝る自己愛の恐ろしさを描く「良夫婦」も、人を信じたい気持ちとそれでも疑ってしまう心のあわいをあぶり出す「冷たい大根の煮物」も、人と共にある嘘の姿が、嘘と共にある人の姿が、不気味なのにおかしくて、それでいて切なくて、どれもたまらなくかなしい。それは「愛しい」と書いて「かなしい」とルビを振るかなしさに近い。

〈ありがとう。いつ世界でひとりぼっちで生き残る羽目になるかわからない自分と、今この瞬間を共に生きてくれる人〉(「良夫婦」)

 かつて私がついた嘘と、それでも居なくならなかった人たちのことを思いながら、この言葉に自分の声を重ねる。

 描かれるのは奇譚ではなく、現在進行形の現実だ。

いまむらなつこ/1980年、広島県生まれ。2011年『こちらあみ子』で三島由紀夫賞を受賞。2017年『あひる』で河合隼雄物語賞、『星の子』で野間文芸新人賞、2019年「むらさきのスカートの女」で芥川賞を受賞。他の著書に『父と私の桜尾通り商店街』『木になった亜沙』がある。
 

きむらあやこ/1980年、静岡県生まれ。文筆家、オンライン書店「COTOGOTOBOOKS(コトゴトブックス)」店主。