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駅と中心市街地の微妙な距離感

 このうち昭和通りは、1913年に開通した大正町通りをルーツにもち、それを発展させて改修、1935年に昭和通りとして改められた。昭和初期の不景気に伴う失業者対策事業だったという。そうしてその道沿いには商業施設が建ち並ぶようになり、長野でいちばんの繁華街になっていった。すなわち、長野駅とは少し離れた場所が長野の中心市街地だった、というわけだ。善光寺と北国街道宿場町からはじまる町らしい歴史といっていい。

 
 

 しかし、時代とともに状況が変わってゆく。丸善はライバルの丸光の後塵を拝し続け、1960年代には東急グループの傘下に入る。東急グループ創業者の五島慶太が長野出身だったという縁によるものだったとか。

 その際、東急の判断もあって店を長野駅前の現在地に移す。これからの時代は町の中心市街地は駅前に移っていくという判断があったようだ。なかなかの慧眼ともいえるが、卵と鶏論争みたいなもので、町外れの駅前に百貨店ができたことが中心市街地の移転を促したという部分もあるわけで、どちらがどちらとも言えないような気もする。

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 ともあれ丸善(東急百貨店)が駅前に移ったことで新田町に残った丸光は一人勝ち……と思いきや、1970年前後はまだまだ鉄道の時代。駅前に百貨店ができて便利になれば、人がそちらに集まるのもとうぜんの成り行きだ。

 そうして人の流れは駅前に偏りはじめ、新田町の丸光は徐々に売り上げを減らしてゆく。1980年代にはそごうの傘下に入り、看板を長野そごうにかけ替えている。それでもバブル崩壊後にはダイエーとの競争もあって厳しい環境は変わらず、2000年に閉店。跡地がTOiGOになったのである。

「昔の東京の地下鉄もこんな感じだったよなあ」

 

 その間、長野駅前にも大きな変化があった。長野駅前にターミナルを持ち、湯田中方面などに線路を延ばしていたローカル私鉄の長野電鉄の線路が地下に潜り、その上に長野大通りという新しい大通りが整備されたのだ。

 

 つまり長野駅前の地下には長野電鉄の駅があるのだが、その長野電鉄はしばらくの間、長野大通りの地下を走る。中心市街地の外れで地上に出て、あとはローカル線として終点めがけて走って行くのだが、とにかく長野には“地下鉄”があるというわけだ。

 
 

 といっても、東京の地下鉄のようなものとは少々違い、ターミナルの長野駅からしてローカル色というか昭和っぽさが濃厚に漂う。お隣でこちらも地下駅の市役所前駅にしても、無機質なホームと無機質なコンコース。そういえば、昔の東京の地下鉄もこんな感じだったよなあ、とちょっと懐かしくなるくらいのそういう空間だ。