国民の戦意を高揚させ、戦時体制の強化継続に絶大な効力を発揮したプロパガンダ・ポスター。かつての日本国民は、政府の理想を伝え、そのための行動を促進する目的でつくられたポスターを通じ、何を知り、何を信じ込まされていたのか……。
ここでは、青梅市立美術館の学芸員である田島奈都子氏が、長野県阿智村に現存する戦時中に製作されたポスターについて解説した『プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争 135枚が映し出す真実』(勉誠出版)の一部を抜粋。貴重な図版を田島氏による追加説明とともに紹介する。
※画像はすべて個人蔵(長野県阿智村寄託管理)
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《蓖麻(ヒマ)が無ければ飛行機は飛べぬ!》に記されている蓖麻とはヒマシ油のことであり、トウゴマの種子から採取する植物油である。
油脂としては潤滑性に優れているため、初期には航空機用エンジンの潤滑油として、使用されることが多かった。しかし、酸化しやすく熱への安定性が不足していることから、世界的に見ると、第二次世界大戦の頃には航空機用潤滑油は鉱油系が主力となった。
戦域が広がったことで主力兵器が完全に飛行機に取って代わり、その動力となる燃料や潤滑油の生産は喫緊の課題となった。しかし、そもそも天然資源が乏しく、戦争の激化によって海外からの物資の調達が難しくなった日本は、国内生産出来るもので代用するしかなく、こうした中で生産が奨励されたのがトウゴマであった。
なお、戦争末期に新たに日本領となった現在のシンガポールやインドネシアにおいても蓖麻栽培は奨励され、別の作物の耕地や森林が蓖麻畑に強制的に転作させられたり、個人宅の庭での蓖麻栽培が義務づけられたりもした。
輸出競争力のある商品のなかった日本
開国以来、日本にとっての繊維産業は、外貨獲得の重要な手段であり、戦時下においてもその状況に変化はなかった。
もっとも、その中心である生糸の価格は、第一次世界大戦直後から下落の一途を辿り、《労務動員―集レ 輸出繊維工業へ―》が製作された1940年代初め頃は、かつてのような収益力はなく、世界的にも贅沢品の使用や販売が規制されるようになっていたことから、需要も落ち込む傾向を見せていた。
けれども、日本にとって生糸以上に輸出競争力のある商品はなく、外貨の獲得を繊維産業に頼る傾向は、この時代にますます顕著となっていった。
なお、《労務動員―行け!銃後の戦線 重工業へ―》が製作された1940年代の重工業の中心は、戦闘機や兵器の製造であった。