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子どもの頃から憧れ、親身に指導してくれた辻発彦さんへ…僕が最後に伝えたいこと

文春野球コラム クライマックスシリーズ2022

2022/10/17
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 みなさん、こんにちは! 埼玉西武ライオンズOBの米野智人です(ヤクルト→西武→日本ハム)。昨年からライオンズの本拠地ベルーナドームのライトスタンド後方にあるピンクのお店「BACKYARD BUTCHERS」を営業させていただいてます。いつもご来店くださっている皆さま、本当にありがとうございます。

 1週間ほど前にCS敗退が決まり、ライオンズの今シーズンが幕を閉じた。

 レギュラーシーズン後半の大事な9月に7連敗もありCS出場も危ぶまれたが、最後になんとか盛り返し、3位でCS圏内に滑り込んだ!

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 このままの勢いで短期決戦も走り抜け、日本シリーズに進出してチームとファンの皆さんが所沢に戻ってくることを信じて待っていたけれど……福岡で儚く散った。

 それでも、ライオンズファンを最後まで期待させ、楽しませてもらいました。監督、コーチ、選手、裏方さん、スタッフの方々お疲れ様でした。

 この戦いを最後に、2017年から6シーズンに渡って埼玉西武ライオンズを指揮してきた辻監督の退任が決まった。 

 1年目の2017年は、前年まで3年連続Bクラスだったチームを立て直してリーグ2位。2018年には10年ぶりのリーグ制覇を飾り、2019年は21年ぶりのリーグ連覇を達成。今年7月6日には、球団史上6人目となる監督通算400勝を飾った。

 低迷していたチームを見事に立て直し、若い選手を育て、常勝ライオンズになるための土台を作り上げてくれた。

想像以上に「大きかった」辻発彦

 辻監督といえば、現役時代に不動の二塁手としてライオンズの黄金期を支え、歴代最多のゴールデングラブ賞8回、ベストナイン5回、首位打者獲得など選手としても輝かしい成績を残し、球界のトッププレーヤーだった。

 辻さんを語るうえで、あの伝説のプレーを思い出される方も多いのではないだろうか。1987年の日本シリーズ、ジャイアンツ戦で相手の隙をついて一塁から一気にホームに生還した走塁は今でも野球ファンの語り草になっている。

 僕が辻さんを初めて知ったのは1992年のライオンズ対スワローズの日本シリーズだった。

 当時10歳の野球少年だった僕は、テレビの前に釘付けになり興奮しながら試合を見ていた。本当に白熱した試合で、そのときに「将来はプロ野球選手になりたい」と強く思ったことを今でも覚えている。

 その中で辻さんのプレーはさることながら、チームを鼓舞して勝利に対する執念を子どもながらに感じ取っていた。

 その8年後にまさか辻さんと同じチームで野球をするとは、夢にも思っていなかった。

 辻さんは現役晩年の1996年、それまで日本シリーズで熱い戦いを繰り広げていたスワローズに移籍し、僕が入団する前年の1999年までプレー、その年を最後に引退された。2000年からはスワローズの二軍守備・走塁コーチとして、同じチームのユニフォームを着て野球ができた。

 コーチと選手という立場だったが、野球少年の頃に憧れていた選手と同じチームで野球をすることに、最初は実感が湧かなかった。

 はじめて辻さんを見たとき、「うわぁ! 辻発彦だ! 思っていたより大きいなぁ」という第一印象を抱いた。

 清原和博さん、秋山幸二さん、デストラーデと当時のライオンズは体の大きな選手が多かったから、辻さんはそんなには大きく見えていなかったが、実際は思っていたより大きかった。「やっぱり、プロ野球はちょっと違う世界なんだな」と当時17歳だった僕は新たに挑む世界に圧倒されていた。

 昨年のコラムでも書かせてもらったように、2000年から2001年までの2年間、辻さんからはプロ野球の厳しさと生き残り方、野球の奥深さなどを優しく、ときに厳しくという絶妙なバランスでさまざまなことを指導していただいた。僕の17年間のプロ野球生活に多大なる影響を与えていただき、感謝しています。本当にありがとうございました。

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