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「筆に迷ったら、まあ弱い方につくんだな」

 私は1975年4月に読売新聞に入社し、東京・大手町の本社で約1か月間の退屈な記者研修を終えて、青森支局に配属された。米軍がベトナム戦争で敗北し、クアラルンプールで米国大使館やスウェーデン大使館が日本赤軍に占拠された年である。

 この年は「読売社会部帝国」の落日を告げる社内政変があり、のちに「ドン」と呼ばれる渡邉恒雄が、編集局次長兼政治部長の要職に昇進している。渡邉は私たちの記者研修で講義し、

「俺が講演すると大変なカネが入るんだ。君らに話しても一文にもならん」

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 と言い放ち、新人記者の度肝を抜いた。なんだ、こんな高圧的な記者にはならないぞ、と私は思った。

 作家の山口瞳は、社会部の記者がスターであり英雄である時代があったという一文を、本田靖春の『不当逮捕』に寄せている。だが、最後の社会部スターだった本田も、私が入社する4年前に読売を去っており、酔いどれたちの姿も本社から消えつつあった。

 ただ、私が赴任したのは、本社の管理の目が届かない本州最果ての地である。先輩たちは実によく酒を飲み、取り憑かれたように酒場に通う者がいた。

 支局のデスクは締め切り前に顔を真っ赤にしていた。机の端に置いた白く小さな湯呑に酒を入れ、それをなめながら、若い記者の原稿に直しを入れていた。湯呑が空になったり、面倒な原稿に出会ったりするとペンを置き、ふいと席を立って台所へと向かう。そこで酒を注ぎ足し、天井を睨んだりして、またデスクに戻る。日中は時々手がブルブルと震えるような人だったが、湯呑を手にするとピタリと止まった。そして、

「どちらの言い分が正しいか、筆に迷ったら、まあ弱い方につくんだな」

 と言ったりした。その傍のソファでは、原稿を書き終えた先輩記者たちが花札や軍人将棋に興じている。

 羽中田たちが愛した無頼の空気は、支局でかすかに息をしているのだった。

 同僚は嬌声の響くクラブに通ってアパートの家賃が払えなくなり、家主から逃げ回っていた。家主は業を煮やして、ついに「いいかげんにしてくれ!」と支局長室に怒鳴り込んできた。作家の開高健の説では、酒を飲むと人の魂(スピリット)が引き出されるらしいが、同僚は仕事をきちんとこなす真面目な記者だったので、なぜ家賃を何か月分も溜めるほどに通うのか、私には理解できなかった。

 青森県版の締め切り時間が近づくと、支局の前には先輩記者の夫人が車で迎えに来た。先輩は俳優の杉良太郎に似た男前で、遊び人を自称していた。仕事も口も達者だが、見えにくいものを内に抱え、深夜になると繁華街のどこかに消えていくのである。

「それで奥さんが逃がさないように捕まえにきているんだ」

 私たちは噂をし、帰路に就く先輩の姿を2階の窓から眺めていた。支局には一か所しか出口がないから、夫人運転の車に乗り込むしかなく、それで家庭へと向かって行く。

「先輩、脱出しそこねたね」

「うん、引き立てられた」

 私たちは無責任な会話の後で、裏の居酒屋に足を運んだ。だが、自分のことはめったに話さなかった。

 先輩記者たちは、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大学から社会へ燎原の火のように広がった時代に学生生活を送っている。共産党系の日本民主青年同盟や反代々木系党派、あるいはノンセクト系のデモに加わり、機動隊に石や火炎瓶を投げた者も多かったはずだ。政治や自分に何の疑問も抱かずにメディアの門をくぐることなど考えられない、造反の時代である。その全共闘運動が見事なまでに崩壊し、血みどろのベトナム戦争も終結して、それぞれに喪失感や苛立ちを抱いて、社会に押し出されていた。

 私は団塊の世代より遅れた世代で、学生運動からも逃げ遅れ、1年留年して新聞社に潜り込んでいた。仲間たちは労働運動に身を投じたり、大阪・釜ヶ崎の寄せ場に姿を消したり、自己批判の後、郷里の札幌に戻って蕎麦屋に弟子入りしたり、蜘蛛の子のように散りながら、生きる道を探している。少し飾った書き方をお許しいただければ、私もまた仲間や議論から遠ざかって、この先の道標となる人や出来事を求めて彷徨していた。

 羽中田たちの酔いどれ伝説を知ったのはそのころだ。大きな石油ストーブが燃える深夜の支局や昏い酒場の隅で、先輩や出張してきた本社の記者に面白おかしく聞かされたのだった。その本社組には大変な酒豪がいて、夜の町で、

〽見よ東海の空明けて
旭日高く輝けば

 と、「愛国行進曲」をいつ果てるともなく放吟し、飲み歩いたあげく腰を抜かすのはまだ可愛い方で、担ぎ込んだホテルの寝床で脱糞した大先輩もいた。私はその惨状の後始末をしたが、あまりの恥ずかしさに誰にも言えなかった。

 羽中田は酔いどれの元祖だが、酒乱ではない。当時は、出向した報知新聞で文化部長や編集局総務を務めあげて退職し、文筆業に入っていた。私は彼の本を探して、少しずつ読んだ。

 彼は社会部次長時代の1953年に、特ダネあさりのぐうたら記者を描いた『酔いどれ記者』を、娯楽よみうり編集部長時代の57年には、『足——新聞は足でつくる』(朋文社)を出版して、事件記者のいじましい特ダネ競争を軽妙に綴っていた。原四郎はその『足』の冒頭にこんな文章を書いている。

〈社会部デスクといえば、社会面作りの実行者、いわば新聞作りの大将である。部長などというものは天皇制のようなもので、ただ上御一人に奉るだけ実際は大将が何もかもやっている。その「何もかも」が、時々刻々に激しく変転する事象に対応してのことである。そこには不断に、神経と肉体と、そして責任の酷使と強制がつきまとっている。この三つのどれかに、或いはそのどれもにひっかかって、「デスク」は4、5年たたぬ間に次々と消えてゆくのである。しかるに羽中田誠という記者は10年以上もこの「デスク」を勤めて決して消えようとはしなかった。まことに不思議な男というほかはない。

 しかも、この十幾年は、日本国民がはじめて経験したあの敗戦以来の歴史的な変動期であった。したがって、この変動期の新聞作りの大将であった〉

「鉄鯨」から無傷で戻ってきた羽中田

 私が驚いたのは、彼の経歴が錯綜し、細いロープの上を歩くような危ないものであったことだ。

 羽中田は3歳で父親を失い、母親とともに東京・市ヶ谷から山梨県に移り住んでいる。ここで少年期を過ごし、法政大学経済学部に入学したものの、2年後に中退して山梨に戻る。そして1930年の奥野田争議など農民運動に参加した。

 奥野田争議は山梨県東山梨郡奥野田村(現・甲州市)で起きた小作争議である。発端は、凶作を理由に農民側が小作料の引き下げを申し立てたところ、地主が土地を取り上げるために法廷戦に持ち込んだことにある。『山梨農民運動史』(竹川義徳著・大和屋書店)などによると、小作人たちは全農県連合会に応援を求め、

「骨が舎利になっても土地は放さない」

 と抵抗した。地主側が取り上げた土地に粟の蒔き付けを強行したため、農民たちは鍬や鎌を持って殺到し、17人が検挙された。全農側は近隣から約300人の全農系闘士を集め、赤旗や組合旗を立てて示威行動を展開したという。

 羽中田もその列に加わって駆け回ったのだろう。21歳である。

 そこから流転の人生は加速する。

 31年に山梨日日新聞社に入社し、翌年に読売新聞社甲府支局に転じ、妻を迎えると、またも上京して東京の聯合映画社、旭日映画社と職場を変えた。奥野田争議から10年後の40年には、読売新聞映画部に転職し、翌々年には社会部に移っている。

 さっそく海軍報道班員として、南太平洋の潜水艦基地に従軍を命じられる。それが1年半続いた。

 彼が乗船した伊号第11潜水艦は、オーストラリア沿海の海上交通破壊戦に参加し、5隻の艦船を沈めている。そのたびに敵駆逐艦の執拗な爆雷攻撃に耐え、漆黒の波間に浮上しては蘇生する。喘ぎながらまた潜る。頭上の敵を破滅させようという潜水艦の苦闘を、羽中田は新聞や著書『鉄鯨魂』で生々しく報じた。

「鉄鯨」とは日本潜水艦のことだが、連合軍によって127隻が沈められ、残ったのは52隻に過ぎない。現実は「鉄の棺桶」だったのである。伊11も最後には南太平洋で消息を絶っている。

 だが、羽中田は無傷で棺桶から戻ってきた。

死体を墓から掘り返し“抵抗した”弁護士

 終戦間際、彼の姿は千葉県佐倉市に疎開していた弁護士正木ひろしの自宅にあった。正木は冤罪事件の刑事弁護を引き受け、無辜の人々の救済に生涯を捧げた抵抗人である。

正木ひろし氏

 48歳の彼を一躍有名にしたのは、1944年1月の「首なし事件」であった。それは正木が警察官による拷問死を立証する過程で起こしたもので、羽中田はその真相を取材しているうちに、正木と親しくなったのだった。