事件の被害者は、茨城県那珂郡長倉村(現・常陸大宮市)にあった長倉炭鉱の鉱夫頭である。賭博の取り調べ中に脳溢血で倒れたとされていた。医師の診断や水戸検事局の結論も病死だ。ところが、石炭採掘場の人々は、
「花かるたに興じた仲間が、前日にも取り調べを受け、警官に棒や素手で殴られて失神したり、厳冬の中に裸で放置されたりした」
「死んだ男は頑健で脳溢血の血統でもなかった。警官に撲り殺されたのではないか」
と言う。当時は警官や憲兵たちによる拷問が公然と行われており、警察や検事局は全く相手にしてくれない。調査依頼を受けた正木は憤然とし、深夜、埋葬された寺に忍び込んで、死体を墓から掘り返した。
それどころか、首をノコギリとメスでちょん切ってバケツに入れ、満員の列車で東京に持ち帰って鑑定に出した。乗り合わせた乗客は風呂敷に包んだバケツから腐臭がするのに気付き、鼻をふさいでいたという。他殺の証拠を捨て身で押さえたのだ。もちろん違法である。
それをもとに当局鑑定のウソを暴き、拷問致死や証拠隠滅容疑で告発したのだが、正式な鑑定人が死体を掘り出したときには、首がついていなかったから誰もが仰天した。検察当局は激怒して墳墓発掘罪や死体損壊罪で起訴する構えを見せる。だが、正木は1937年に3000部で創刊していた個人雑誌『近きより』にいきさつを詳細に暴露し、逆に警察や検察、医師の非道を訴えた。
そして、事件から10か月後、水戸地裁が拷問を加えた警官に無罪を言い渡すと、正木は裁判長を「卑怯者!」と面罵した。あきらめない男なのである。
正木が拷問死を立証し、最高裁で警官を有罪に追い込んだのは、実に11年後のことである。
「法律にひっかけて人を苦しめたりする悪魔との闘いだ」
私は高校生のころに、朝日新聞論説委員の扇谷正造が編纂した『私をささえた一言』(青春出版社)を読み、正木の存在を知った。これは著名人100人を支える言葉を集めた新書だが、その中に、
〈今日にいたるまで、自己の良心を売らずに何やかやと、生計を営なみ、権力悪と闘ってこられた〉
という正木の一文があった。
——なんと格好のいい言葉だろう。
私はほれぼれとした。
首なし事件の後も、正木は三鷹事件や静岡県の丸正事件、山口県の八海事件、大分県の菅生事件など、全国各地の冤罪や再審事件を十数件も手掛け、日本で最も有名な弁護士になっていた。
「私の闘いは、法律にひっかけて人を苦しめたりする悪魔との闘いだ」
と語り、こんな言葉も残している。
〈しかし、「わたくし」は降服しません
私は亡者ではありません
敢然として悪魔と闘い続けます
人間と生まれ
人間として生きないで
どこに生活があるでしょうか〉
坊主頭でギョロリとした目に縁の太い眼鏡をかけ、写真の中の正木はいつも微笑を浮かべている。合理主義者だがクリスチャンでもあり、天皇の名によって、無数の青少年が戦場にかり出され、天皇の謝罪がなかったと非難した。その彼を支えているのは、英国の社会主義運動家、エドワード・カーペンターの「愛の報酬を求めるな」という言葉だという。
一人の人間の中にプリズムのように輝く多面の人格が同居している。ひどく引き込まれた。
「濡れ衣みたいなことは…」父は不機嫌そうに言った
けれども、私の父は正木や冤罪の話題になると、顔を歪めた。
父は戦争末期に、海軍の夜間戦闘機「月光」に乗り、戦後は大阪府警に奉職した後、郷里の宮崎に戻って刑事を務めた。柔道三段、剣道二段、警察の柔道大会の常連だった。私を頭に5人の子供を抱えていたため、二十数年在職して地方紙「宮崎日日新聞」の販売店主に転じていたが、自分たちの捜査や警察組織を固く信じており、正木には「あくの強い売名家」「奇言奇行の弁護士」というイメージを抱いていたのだろう。
私が聞きかじりで正木を称えたときだった。
「濡れ衣みたいなことはそうそうはない」
と父は不機嫌そうに言った。私はむきになった。
「昔はあったんだよ」
「こっそり死人の首を切り落としていいわけないじゃろ。そんな奴はいい死に方をせんぞ」
「いいじゃねえか。権力の壁を破るためだから」
なおも私は青臭く言い張って、殴られそうになった。
わが一族は日向国・飫肥(おび)藩の下級武士の末裔で、隣町の清武町(現・宮崎市)には飫肥藩第二の拠点である清武城があった。その出城である曽井城の城址がJR南宮崎駅から少し離れた小高い丘に残り、清武姓の一族がその下に集落を作っていた。
「うちは足軽大将だったらしいよ」
祖母は笑いながら話したものだが、山城を守った足軽頭くらいのものかもしれない。いずれにせよ、一族には武骨の血が流れていて、祖父は大酒飲み、叔父たちは気性荒く、長男の父もすぐに手が出るのである。
元警察官ということもあって、親族や地区民のよろず相談事を引き受け、素行の改まらない知人の息子を2人も預かっていた。何があったのかは覚えていないが、預かった彼らが道に外れたということらしく、黒土を踏み固めた庭に2人を引き出し、平手打ちを食わせた。
パンパンパンパン。静かな夜に、乾いたビンタの音と父の低く唸るような声が響いていた。
私も時々、頬を打たれた。正木の話題のときは父が血相を変えたぐらいで終わったが、新聞記者になって帰省すると、戦中、戦後の警察捜査をめぐって、父と激しい言い争いをした。私は青森支局で二件の再審事件取材と別の冤罪疑惑の掘り起こしに取り組んだ。一時、休日のすべてをそのために費やしていた。
不思議な縁だが、羽中田と同じように、私も正木の道に導かれたのだ。
——正木のような真実の発掘人がいい死に方をしないというのならば、一体だれが天国に行けるというのか。
父にそう言い返したかったが、「なにぃ」とビンタが飛んでくるので、そうは言わなかった。
今になって思えば、冤罪疑惑の取材にのめり込んだのは、父に認めさせたかったのだ。私自身が一人前の新聞記者になりつつあること、そして、やっぱり冤罪と誤審が埋もれていることを。(文中敬称略)
ノンフィクション作家・清武英利氏の人気連載「記者は天国に行けない」第1回は月刊「文藝春秋」2022年2月号、および「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
源流の記者