組織や権力のくびきに無縁で矜持を忘れない記録者の顔とは――。月刊「文藝春秋」2022年2月号より、ノンフィクション作家・清武英利氏の人気連載「記者は天国に行けない」第1回の一部を転載します。
◆
「酔いどれ」の異名を取った戦後記者の“源流”
1945年8月30日、連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが日本に進駐してきたとき、日本のメディアを代表して神奈川県の厚木基地で取材した記者が4人いた。読売新聞の羽中田(はなかだ)誠はその一人である。
羽中田は火中に引き寄せられる蛾に《似て、危うい社会部記者だった。社内では「酔いどれ」の異名を取った。当番の日になると、デスク席でチビチビやりながら原稿に手を入れるのを喜びの一つにしている。足下に置いたヤカンから冷や酒を少しずつ湯呑に注ぎ入れ、渇きをいやすのだ。
310万人の日本人が死んで、満州事変以来、14年に及ぶ昭和の戦争が終結した。それから数年後のことである。
敗戦直後の記者たちは痛飲したと言われている。敗戦の晩からじゃぶじゃぶと飲みだした、と高木健夫は書き残した。読売の看板コラム「編集手帳」を17年間も書いた論説委員である。慢性の胃潰瘍で酒を控えていたのに、解放感と自棄感から、やたらむしょうに酒が飲みたくなった、と『新聞記者一代』にはある。
だが、羽中田はそれから3、4年過ぎても、酔いどれていた。
戦後の社会部には夜も昼もなく、陰惨で奇怪、不条理な事件が飛び込んでくる。餓死者が続出し、浮浪者や戦争孤児が警察による「狩り込み」に遭い、買い出し女性たちが連続して犯され、12代目片岡仁左衛門一家が殺害され、闇米を拒否した裁判官が餓死した。1948年には、戦後史の謎と言われる大量毒殺の帝銀事件、さらに次の年には下山、三鷹、松川事件が立て続けに起きる。
その喧騒と塵埃に包まれて、羽中田はデスクにうずくまり、密やかに喉を鳴らしていた。締め切り時間が近づくにつれ、むしろ表情はさわやかに、機嫌よく青インキの筆も進むので、禁じる者はまずいなかった。
唯一の譴責使が1949年に社会部長に就く原四郎で、時折、酒の香を嗅ぎ付け、声を上げる。
「ナカ! また飲んでるな!」
それでも叱責は、それ以上のものではない。
原は羽中田より一つ年上で、やがて副社長に就いた。社会部長としても、新宿「惡の華」粛清キャンペーンやマグロ漁船「第五福竜丸」が水爆実験の死の灰を浴びたスクープなどを放って、「読売社会部帝国」と呼ばれる時代を築いた実力者である。原が社会部長に昇った時期に、羽中田は不惑を迎えて社会部次長に就いていた。
羽中田は原の罵声を浴びても、にやっと笑って飲み続ける。原はプイとどこかへ立って行った。羽中田の笑いの奥にあるものに出会ったからである。
デスクにいない夜は、社屋のあった東京・銀座や有楽町の裏町にいた。
首都の町は焼け野原に細い柱を立て、ベニヤ板を打ち付けたバラックから起き上がりつつあった。数寄屋橋の下を流れる皇居外堀脇や銀座の裏通りには、屋台より少しマシな飲み屋が雑然とひしめき合って、右に左にくねる迷路を作っている。
羽中田は、「でんちゅう」か「おばこ」か「おりん」か「薩摩や」か、そのあたりの飲み屋を一回りすれば、赤みを帯びた丸顔を見つけることができた。
「でんちゅう」は、小屋掛けの柱に木製の電柱を使ったので、その名が付いている。新聞記者のたまり場で、後年の読売新聞では検察・裁判担当記者がよく通っていた。
私は羽中田よりも三回り以上も年下で、読売の入社年次では35年も離れている。社会部では検察庁舎とは道を隔てた警視庁詰めの出身だった。
いわゆる検察記者とは文化を異にしていたのだが、私も時々、「でんちゅう」で隣の客に肘をぶつけながらグラスを傾けていた。
もしそこに羽中田がいれば、メガネの奥の細い目を糸のようにして、「とりあえず一杯やれよ」とすすめてくれただろう。彼は誰がやってきても飲ませたのだ。
若い人には愚かしく映るだろうが、記者が戻るところは締め切り間際の新聞社だった。インクの匂いのする新聞ゲラを読むために会社に上がるのだ。
金があればその後、朝まで飲み明かしてべろべろふらふら、羽中田ら4人が泥酔して会社の玄関に整列し、出勤する社員たちに、
「ご苦労様です」
と一人一人に挨拶したこともある。
金がなければ深夜の自動車部に行って車を出させる。「送り」と呼ばれる夜勤者送迎用の乗り合いだ。
帰るのさえも面倒なときは、車庫の車に持ち込んだ毛布にくるまって、エビのように丸まって寝た。会社の宿直室は一部屋に数十のベッドが並んでいる。そのなかの一単位になり果てることは、箱に詰めたハゼの佃煮のようだから嫌なのだ。
送りで帰るときも、自宅の300メートル前の「駒六」という居酒屋の前で停めさせる。「もう一杯飲もう」と降りるのはいつものことだ。街が白々として少しずつ眠りからさめるころ、酩酊した羽中田を後輩が抱きかかえて自宅の夫人に引き渡す。それもよくある光景だった。
——と、ここまで書いて、私は黄ばんだ本や資料類を机の端に押しやった。
眼の前には、『酔いどれ記者』(鱒書房)や『鉄鯨魂』(太平洋書舘)、『墓碑銘——あるアナーキストの死』(東邦出版社)など羽中田の著書と、朝日新聞の名物記者・入江徳郎の『泣虫記者』シリーズ、同じ戦後の時代を生きた記者たちの刑事物、それにゾッキ本や戦記物など古書が小山を作っている。
そのうちの一冊を取り、とじ糸がゆるんでバラバラになりそうなページを繰りながら、飲んだくれの姿を思った。
——なぜ彼は浴びるほどに飲んだのだろうか。戦争が終わって、再出発していたのではなかったか。
そもそも私は報道者の顔について書こうとしていたのだ。新聞社やメディア企業ではなく、記者個人。いわゆる言論人ではなく、新聞人やテレビ、雑誌記者に限ったわけでもない。肩書はなんでもいい、ネット記者でもフリーでも、とにかく組織や権力のくびきに無縁で、矜持を忘れない記録者の顔だ。
ところが、思案しているうちに、戦中と戦後をまたいで生きた羽中田のことが頭から離れなくなった。一度も会ったことがないのに、ひどく懐かしい。
たぶん、彼は戦後の記者の源流だからだ。そして私の支局時代の光景とも重なっている。