鉱山町として発展を遂げ、都会の人々すら羨む好待遇な暮らしが送られていた岩手県・松尾鉱山一帯。しかし、その明るい雰囲気は長く続かず、次第に衰退の一途をたどることになる。いったいなぜ松尾鉱山は栄華を失ってしまったのか。

 ここでは、ドローンによる空撮映像を掲載するYoutubeチャンネル「Drone Japan」が2022年10月17日に上梓した初の写真集『空撮廃墟』(付録Blu-rayディスク/廣済堂出版)の一部を抜粋。美麗な写真とともに、東北の鉱山が重ねた知られざる歴史を紹介する。

 

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八幡平の高地、かつて栄えた「雲上の楽園」

 松尾鉱山は、東北地方の中央部、奥羽山脈に連なる岩手山と八幡平(はちまんたい)の間、標高およそ1000mの人里離れた高台に存在していた。

 鉱山としての松尾の沿革は江戸時代にまで遡り、当時は専ら金銀銅を産出していた。松尾で硫黄採掘が初めて行われたのは1874年で、1882年には佐々木和七という人物が硫黄の大露頭を発見し、鉱山としての開発に着手している。しかし、当時はまだ硫黄の資源としての価値が十分に認められていなかった時代であったため、開発に必要な資金が集まらず、一部の早すぎた人々だけが、大量の硫黄が眠る原生林を人力で切り開いたに過ぎなかった。

 

 明治後期になると、松尾の試掘権は佐々木和七の手を離れて幾人もの間を転々とし、最終的に1911年、横浜で増田屋グループという貿易商を営んでいた中村房次郎の手に渡る。彼は明治期にいち早く海外における硫黄の需要に着目し、主に北海道産硫黄の豪州への輸出を成功させた人物であった。房次郎氏は3年の調査、準備期間を経て、1914年に松尾鉱業株式会社を設立した。これが近代的な鉱山としての松尾の始まりである。

松尾鉱業株式会社、戦前の隆盛

 松尾鉱業の創立期は、第一次世界大戦に伴う戦争景気と、日本国内で重化学工業が発展した時期に重なった。この時代になると、硫黄は化学肥料や合成繊維、製紙、合成ゴムなど多岐に亘る工業製品の製造に不可欠な基礎化学品の地位を確立しており、同社は創業期から急速に業績を伸ばした。松尾鉱山は創業5年目にして既に国内第2位の硫黄産出量を誇り、同8年目には、国内シェアの3~4割を担う第1位の硫黄鉱山に成長している。