皇族や大臣も視察に訪れた「雲上の楽園」
1953年に開業した松尾鉱山病院に至っては、盛岡市内で発生した重症者が、市内の病院を差し置いて救急車で運ばれてくる程の設備の充実ぶりだった。
皇族や大臣も、次々と松尾に視察に訪れた。松尾鉱山が「雲上の楽園」と称えられたのは、この頃である。
松尾鉱業の経営方針は、創業当初からいわゆる典型的な経営家族主義を採用しており、上記のような福利厚生の充実ぶりもその一環であった。ヤマで生まれ育ち、ヤマの学校に通い、ヤマで働く住人たちは、経営陣も含めていわば一つの大きな家族であるという気持ちを共有していた。当時の鉱山で全国的に問題となっていた労使関係も、松尾では比較的良好だったようである。
幼い頃から共に育った気心の知れた仲間達、都会の人々すら羨む好待遇、過酷ではあるが日本の産業を地下から支える誇りある仕事。日本全体で高度経済成長の予感が高まる中、松尾鉱山はひときわ明るい雰囲気に包まれていた。
この十数年後、「雲上の楽園」が消滅するなど、住人達の誰一人想像だにしない黄金時代であった。
回収硫黄と楽園の終わり
最初の転機は、米国産の安価な硫黄の登場であった。松尾鉱山の半分の採掘コストで済むという「フラッシュ法」による硫黄生産が米国で大規模に取り入れられ、世界の硫黄市場を席巻し始めたのだ。これにより、1955年以降、松尾鉱業の業績は下降線を描いていく。
松尾鉱業はコストカットや技術革新、他事業への進出などに活路を見出したものの、成果は上がらなかった。それでも暫くの間、うわべの生活は著変なく続き、「松尾がなくなることなどあるはずがない」と、住民の間にも危機感はなかった。
しかし、いよいよ会社が希望退職者を募る段になると、楽園にも亀裂が生じる。
「会社は大きな家族」だと思っていた社員たちにとって、希望退職者募集は一種の裏切りと捉えられ、その衝撃は大きかったのだ。1959年に900人、1962年には1081人が希望退職に応じ、かつて家族と言われた労使は、骨肉の争いを演じる関係となった。