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 更に昭和に入ると、1931年の満州事変を契機とした軍需の増大と、金輸出再禁止に伴う輸出の促進によって、全国的な鉱山開発ブームが起きる。松尾鉱山も更なる発展を遂げ、国内の硫黄生産の8割を占めるまでになった。1936年には、秩父宮と同妃が松尾の坑内を訪れている。

 しかし、創業以来順調に発展してきたかに思える松尾鉱山にも、多くの逆境があった。とりわけ大きな出来事の一つに、1939年に発生した落盤事故がある。この際、地盤の陥没面は直径100mに及び、死者82名、重軽傷者51名を数える大事故となった。他にも4度に亘る選鉱場や事務所、住宅等の火災にも見舞われている。戦中は、徴兵による人手不足や国内工業の停止、関連施設の空襲によって打撃を受けた。

戦後の黄金時代

 終戦後、鉱山設備の復旧と日本の産業全体の再建が進むと、硫黄需要は再び増加に転じた。松尾鉱業の黄金時代の到来である。

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 松尾鉱業の株価は急騰し、1950年頃には大手証券会社が正月のカレンダーの表紙に松尾鉱山の写真を掲載するなど、当時を代表する花形企業となった。現在も遺構が残る緑ヶ丘アパート群が建設されたのはこの頃で、1951年に6棟、翌1952年に5棟が建設された。これは朝鮮戦争勃発と同時期であり、以後、日本は朝鮮特需に始まる本格的な好景気の時代に突入し、松尾鉱山も更なる全盛期を迎える。

 松尾には全国から好待遇を求めて力自慢の労働者達が集まり、その家族も含めて、ピーク時の人口は約1万5000人にも膨れ上がった。鉱山周辺には小中高校、病院や郵便局、今でいうスーパーマーケットのような商店など、生活に必要な一通りの施設が揃えられた。

 

 緑ヶ丘アパートは、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの建物で、4階建ての各棟には、水洗トイレやセントラルヒーティングといった最先端の設備が導入された。水道光熱費は全て無料であった。

 また、松尾には東北随一の設備と謳われた1500人収容可能な娯楽施設「老松会館」があり、映画の上映や、有名芸能人を招いた公演が催された。待遇が群を抜いて良かったため、人気歌手たちは東北のどの都市よりも先に松尾に来たがったという。