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「横須賀・厚木・茅ヶ崎でスパイ訓練を施し、中国に送り返す」水面下で繰り広げられる米中“情報戦争”

2022/10/15
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「チャイナ・ミッション」のリーダー、デズモンド・フィッツジェラルドは葉山の御用邸近くの一色海岸に居を定め、香港に脱出してきた中国人たちに「横須賀、厚木、茅ヶ崎の秘密施設でスパイ訓練を施し、中国に送り返す」工作を展開した。

 フィッツジェラルドはハーバード大学卒で、ウォール街の弁護士からCIAに転身した。シンクタンク「外交関係評議会」に出入りして、当時のCIA秘密工作機関、政策調整部(OPC)のフランク・ウィズナー部長と知り合ったのがきっかけだった。ウィズナーは戦時中、CIAの前身、戦略情報局(OSS)で、後にCIA長官となるアレン・ダレスの僚友で、親交を結んだ。

デズモンド・フィッツジェラルド

 1950年に勃発した朝鮮戦争で冷戦はいっそう激化、秘密工作は拡大の一途をたどった。中国情勢に関して、CIAは1951年1月11日、NSCに次のような情報を伝えている。

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「中国国内で積極的な抵抗運動を行っている勢力は約70万人」、「そのうち台湾の国民党政権と緩やかな関係を持つ者は30万人」にも上る可能性がある、というのだ。ウィズナーらは「中国大陸に何十万人もの反共中国人ゲリラ部隊がいて米国の支援を待っていると信じ」、これら「抵抗勢力」の増強に期待した。

 そんな話を1995年頃に私に披露してくれたのは、CIAの初代日本課長カールトン・スイフトである。だが「実際は、そんな反中勢力は存在しなかった」(スイフト)というのだ。

 CIAは中国大陸に亡命中国人計8500人を送り込む工作を展開したが、ほとんど全員が捕まった。1952年11月29日には、新人スパイのジョン・ダウニーとリチャード・フェクトーを韓国内の基地から標識のない軽飛行機で飛び立たせた。数日前に中国の吉林省に送り込んでいた中国人スパイから「食料がなくなった」との無線連絡があり、二人は現地に向かおうとしていた。だが、二人が乗った機体は中国軍の対空砲で撃墜された。二人は助かったが、パイロットは即死した。前年にダウニーはエール大学、フェクトーはボストン大学を卒業してCIAに入り、厚木に配置されたばかりだった。フェクトーは約19年間、ダウニーは約20年間服役した。

 フィッツジェラルドは1955年まで米海軍横須賀基地内で対中工作を指揮したが、結果的に「チャイナ・ミッション」は大失敗だった。

チベットでの「秘密工作」

 一方、チベットでも動きがあった。中国軍は1950年、チベットに進駐、翌年にチベットを中国の一部とする「一七カ条協定」を押し付けた。だが、独自の宗教と歴史に誇りを持つチベット人たちがやすやすと中国共産党の軍門に下ることはなかった。チベット仏教の僧侶や勇敢な山岳民族の抵抗運動は拡大、「チベット動乱」に発展した。

 CIA極東担当部長に就任したフィッツジェラルドが執ったのは強行策だった。中国共産党と戦い、チベットを解放しようと考えたのだ。