なぜ北海道の小さな漁村に当時の最新技術が導入されたのか?
茅沼炭鉱のはじまりは、まだ江戸時代だった安政年間にさかのぼる。いちおう炭鉱発見のエピソードも伝わっていて、1856年に船頭の忠蔵さんが漁具に使う木材を切り出しに山に入り、そこで“燃える石”を見つけたのだとか。
そしてその石炭に目をつけたのが当時の幕府の箱館奉行。黒船来航をきっかけとして幕府は箱館(現在の函館)などいくつかの港を外国に向けて開いた。そして外国船が寄港した際には燃料の補給をすることになった。
当時の外国船の燃料といったら石炭である。そこで箱館にも比較的近い、北海道内の炭鉱開発が急がれた。そのひとつとして箱館奉行が開発を手がけたのが、茅沼炭鉱であった。
いよいよ幕府も倒れかかっていた1866年にはイギリス人鉱山技師のイスラムス・ガールと機械技師のゼームス・スコットが招かれ、炭鉱の開発が本格化。明治になると炭鉱開発は開拓使に引き継がれ、ガールとスコットもそのまま携わり、彼らの提案と指導のもとで坑口から港までの茅沼炭鉱軌道が完成したのである。
その後はレールを鉄に変更、蒸気機関車も導入。しかし…
最初は木のレールで牛馬を動力に使うという、鉄道とは似て非なるものだった炭鉱軌道だが、1881年にはレールを木から鉄にリニューアル。さらに1927年には蒸気機関車を導入している。
しかし、せっかく胸を張って鉄道といえるような形を整えたのにもかかわらず、1931年に茅沼炭鉱軌道は廃止されてしまう。
というのも、冬場は雪に覆われる北海道において、鉄軌道は脱線事故がたびたび起こるシロモノであった。加えて石炭を他地域に輸送するための拠点になっていた岩内港までは茅沼の港から艀を引っ張って運ぶしかなかった。
そこで1931年になって、茅沼から岩内までを空中を通って石炭を運ぶ架空索道(ロープウェイ)を建設。これに置き換える形で、“日本最初の鉄道”は廃止されたのであった。
日本最初の鉄道が姿を消しても、炭鉱はその後も生き続けた。戦後直後の1946年には茅沼炭鉱専用鉄道が開業し、石炭の輸送だけでなく旅客輸送にも活躍したようだ。岩内線は1912年に開通済みだったが、岩内の町中では並行して走っていたという。