“日本最初の鉄道”の面影が失われた理由
しかし、そもそも茅沼炭鉱は北海道の端っこの小規模な炭鉱に過ぎなかった。夕張山地や筑豊炭田のような大規模な炭鉱には規模からして敵うはずもない。
もとより経営は厳しく、第一次大戦直後の不況時には一時閉山、100人以上を解雇して再開したこともあった。戦後の労働環境改善を求める動きの中で炭鉱住宅の拡大や福利厚生の充実などが求められて生産コストが増大して経営はますます逼迫。そこにとどめを刺したのが、石炭から石油へ、エネルギー革命だった。
茅沼炭鉱は1964年に閉山している。そしてその2年前、専用鉄道は水害で鉄橋が流失したのをきっかけにそのまま廃止された。こうして泊村の茅沼からは、炭鉱も鉄道も消え、“日本最初の鉄道”の面影はすっかり失われたのであった。
ニシン漁、石炭、原発…「泊村」の150年
閉山前には炭鉱で働く人たちが600人以上も暮らしており、商店街も賑やかだったという。だが、炭鉱がなくなれば彼らがそこにとどまる理由はなく、1960年には9000人近かった村の人口は5年後に4000人ほどにまで減ってしまう。そこに降って湧いたのが、原発だったのだ。
泊村は、1967年に原発立地候補地のひとつに選定される。すると、村は積極的な誘致活動に乗り出す。中には反対する向きもあったようだが、最大の産業を失った村にとっては原発は村存続に向けた命綱のようなものだったのだろう。
かくして1969年には共和・泊地区が原発建設予定地に決定。1978年には村もそれに正式に合意し、1989年に北海道初にして現在も道内唯一の泊原発が運転を開始したのである。
泊村は、まさに北海道のはしっこの寒村といっていい村だ。かつては石炭産業に加えてニシン漁でも賑わって、“鰊御殿”なども建ったという。
しかし、ニシンがよく獲れた時代は遠くに過ぎ去って、炭鉱の時代も過去のもの。茅沼の“日本最初の鉄道”も、海沿いの原発も、ほんのちっぽけな村が時代に翻弄されながら、必死に生き残りを模索した、そんな歴史に残した足跡なのかもしれない。
写真=鼠入昌史
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