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 重要なのは、弱者男性の当事者たちが、自分たちの問題として、自分たちの力で、その「つらさ」を内側から解きほぐしていくことである。

 自分の「つらさ」の原因を作り出す「敵」がどこかにいる。短絡的にそうした話ばかりにしてしまえば、それは「陰謀論としてのアンチ・フェミニズム」や「敵としてのリベラルへのアンチ」に行き着いてしまいかねない。

弱者男性にとって尊厳とは何か

 すでに述べたようにぼくは以前『非モテの品格──男にとって「弱さ」とは何か』という本を出したのだが、この本の議論はネット右翼やミソジニストと紙一重ではないか、という感想をいくつかもらった。

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 確かに、ぼくの中には女性憎悪と紙一重の女性恐怖のようなものがある。その事実を否定しない。否定できない。

 しかし、ぼくの中には、その事実を引き受けたうえで、非モテから攻撃的なインセルへと闇落ちしかねない人間になお残っている尊厳を──「弱者男性の尊厳」はいわゆる「男のプライド」なるものとは別物ではないだろうか──何らかの形で、脱暴力的かつ反差別的なものとして取り出してみたい、という気持ちがあった。

『非モテの品格』の中では、依存症当事者の知見などを参照し、男の弱さとは自分の弱さを認められない弱さではないか、と論じた。その上で、自分の弱さ(無知や無力)を受容し、そんな自分を肯定し、自己尊重していくことが大事である、と書いた。

©iStock.com

 もしかしたら、地位も権力もあって己の特権に無自覚でいられる男性たちよりも、弱者男性たちのほうがまだ「解放」に近いのではないか。

 これはどこか宗教的な理想論(いわゆる「解脱論」)に聞こえるかもしれない。そういう側面がないとは言わない。しかしメンズリブ的な意味での「解放」とは、宗教的な「救い」とはやはり別物であるはずだ。

 ぼくたちの問いは、すでに、個人的で実存的な問題を超えて、「非正規的な男性たち」や「弱者男性たち」が自分たちにとっての新しい生の思想をどんなものとしてつかみ直すか、この社会をどう変えていくか、という共同的=集団的な問題の次元に入っている。