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マイノリティや社会的弱者とは呼べないが…それでも「弱者男性」たちが「男がつらい」と声をあげるべき理由

『男がつらい! - 資本主義社会の「弱者男性」論 -』より #2

2022/10/12
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 たとえば「男もつらい」「男だってつらいんだ」と言ってしまえば、女性や性的マイノリティとの比較において「女性や性的マイノリティもつらいだろうが、男性もつらいんだ」という優越を競うニュアンスになってしまう。あるいは、リアクションになってしまう。

 他方で「男はつらい」という言い方をすると、「男性一般はつらい」という被害者性を強調した意味になって、主語(私たち=男たち)があまりにも大きくなりすぎてしまう。

 フェミニストの江原由美子は、「男のつらさ」に寄り添うことは大切だが、「男はつらいよ型男性学」のような言説は、かつて存在した男性特権を取り戻すべきだという話になってしまえば、ジェンダー平等を目指す立場とは逆の話になり、「フェミニズム叩き」や「マイノリティ叩き」に陥りやすくなってしまう、と論じている(「フェミニストの私は『男の生きづらさ』問題をどう考えるかつらさに寄り添うのは当然、ただ…」、https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66706)。

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「男がつらい」という言葉に込められた意味

 では、これらに対し、「男がつらい」という言い方はどうだろう。

 この言い方ならば、せめて、「(この私にとって)男がつらい」という意味になるのではないか。

 つまり、他者との比較や優越の話ではなく、「この私」にとって「男らしさ」という正規とされる規範性それ自体がつらいし、抑圧的なのだ、というニュアンスが出てくるのではないか。

 そしてそれは男性特権の回復を目指すのではなく、「平等」へと開かれうるような「生きづらさ」の表明になりうるのではないか。

 江原は述べている。「『男性のつらさに寄り添いつつ、男性アイデンティティを開いていく』ような精妙な男性学の展開を、期待したい」(同)。

 男がつらい。

 多数派の男性たちであっても、ひとまず、そう言っていい。声に出していい。苦悶の声をあげていい。

 その「つらさ」には、さまざまな複雑な要因、社会的・制度的な諸問題が絡まりあっているはずだ。