自分の物語を発信することに快楽を覚え……
コロナ・ショックで「動員の革命」は表面的には終わった。しかし、この「動員の革命」によってもたらされた変化はより加速している。もはや人類は「自分の物語」を語る快楽を手放さない。そして「自分の物語」を語るときに、人々はそのもっともコストパフォーマンスの良い手段として閉じたネットワーク上で人間同士の相互評価のゲームをプレイすることになる。だがこのゲームこそが人間から考える力を失わせているのだ。
情報技術の進化と、それを用いた情報環境の変化によっていま、僕たちは他人の物語を受信することよりも、自分の物語を発信することに快楽を覚え、それを社会生活の中心に置き始めている。
そして、気がつけば人類は随分前から閉じたネットワークの中に閉じ込められ、そこで行われる相互評価のゲームに夢中になっている。コロナ・ショックは人間をより完全に近く、このネットワークの中に閉じ込めたに過ぎない。
もう10年以上前からFacebookのウォールは理想の自己像をアピールするために最大限に演出された文化的な生活と充実した社会関係を誇るために、自分よりも広く知られた誰かにタグ付けされた投稿で埋め尽くされ、Twitterのタイムラインでは他の誰かを正義の名のもとに裁き、自分の見識と深慮をアピールする快感を手放せなくなった人々が、他人の言動を最大限に否定的に解釈することで、糾弾する口実を探し回り、しばしば魔女狩りを楽しんでいる。
彼ら/彼女らは自分が投稿した言葉が、画像が、動画が他のプレイヤーの共感を集めたとき、(多くの場合はほんの少し、そして稀に決定的に大きく)自己の存在が承認されたと感じる。たとえどのような距離感のもので、どのような角度からのものであったとしてもそれは一単位の承認(Like)になる。そしてこの快楽は、既に世界中の人々をにしている。自分の吐き出した情報が距離を超えてこの世界の誰かを、ほんの少しでも動かすと信じられる。
このとき人間は、それがどれほど小さなものであったとしても、確実に世界に素手で触れたと信じられる。この手触りは自分が存在していることを強く肯定してくれる。その結果として、今日の世界では世界中の人々が他のプレイヤーからの共感の獲得を競うこのゲームのプレイヤーになっている。
そしてその麻薬的な快楽が、人々を未知のものから逃避させている。目に見えないもの、対話不能なもの、理解が及ばないものを拒絶して、目に見える承認を、Replyを、Shareを、Likeを、Retweetを与えてくれるゲームに逃避することを、世界中の多くの人がいま、無意識に選択しているのだ。
このように今日の情報社会は、とりわけSNSの登場によってこの1つの大きなゲーム──共感の獲得を競う相互評価のゲーム──に覆われている。そこでは誰もが1人でも多くの他のプレイヤーの共感を獲得し、自分の影響力を最大化しようとしている。ある人は経済的な集客のために、ある人は政治的な動員のために、そしてある人は何者でもない自分でも世界に一石を投じ得ること、他の誰かにほんの少しでも認められ得ることを証明するためにこのゲームに参加している。
動員を目論(もくろ)むトランプと、彼への支持を表明することで承認を獲得しようとする市民とが同じ盤上で、同じゲームをプレイしている。情報発信というあたらしい快楽は、人類を1つの大きな繭(まゆ)に閉じ込めているのだ。
このとき、プレイヤーはなるべく多くの他のプレイヤーが言及していることについて言及するようになる。このゲームにおいては既に多くの人々が言及していること以外に言及するメリットが少ないからだ。そのため、広がりがある程度大きくなると問題そのものが言及されることはほぼなくなる。代わりに言及されるのは問題についてのコミュニケーション(偽の問題)だ。
僕は以前、テレビのワイドショーのコメンテーターを務めていたことがある。そこでは問題それ自体を議論することは、ほぼ不可能だった。