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SNSが社会の中心に居座る時代では、誰もがワイドショーのコメンテーター

 たとえば、シングルマザーがその子供をネグレクトした結果、死亡事故が起きたとする。そのとき、番組は問題の解決に必要な議論を取り上げることは決してしない。シングルマザーへの公的な支援が不足しているという問題提起もなければ、自治体等の機関がどうすればネグレクト下にある児童を効果的に発見し、支援できるのかという議論もない。

 代わりにワイドショーはこのシングルマザーのプライバシーを暴き出す。彼女の職歴、交友関係、生まれ育った家庭環境──そしてコメンテーターたちは彼女の恵まれない環境や、怠惰(たいだ)な行動を指摘し、同情や批判を向ける。

 そして視聴者たちはこのコメンテーターたちの発言に共感を寄せ、SNSを用いて石を投げる。自分たちは彼女のような恵まれない環境に生まれずに良かったのだと安心する。あるいは、自分たちは彼女のような無責任な人間ではないのだと気持ちよくそのシングルマザーをあげつらう。

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 僕はこのようなケースがあるたびに、個人を中傷することで視聴者の溜飲を下げる魔女狩りではなく、問題解決のための議論を行うべきだと生放送中に述べていた。

 しかしそのたびに、番組の視聴者からは場の和を乱すなと罵倒を受け、テレビ局からは疎まれることになった。僕が出演していた当時の木曜日担当のプロデューサーの口癖は「視聴者に寄り添う」だった。彼女は「視聴者に寄り添う」番組作りを心がけた結果として(もちろん、それは建前で実際には換金目的で)、福祉や治安の問題を個人の出自や交友関係の問題に擦り替えていたのだ。

 そして、SNSが社会の中心に居座る時代においては、誰もがワイドショーのコメンテーターのようなものだ。誰もが、大喜利のようにタイムラインの潮目を読み、より多くの他のプレイヤーからの関心の得られる投稿を試みる。そしてこのとき、選ばれるのは問題の解決でも再設定でもなく、魔女狩りだ。

 なぜそうなるのか。理由は2つある。まず第1に問題そのもの(真の問題)よりも、問題についてのコミュニケーション(偽の問題)のほうが簡単な問いだからだ。問題そのものは多くの場合、複数の要因が複雑に絡み合うことで形成されているが、問題についてのコミュニケーションは0か1か、YESかNOかの二者択一に単純化することができる。プレイヤーは複合的で、重層的な物語を解釈した上で行動を決定するよりも、赤か青かの信号に機械的に反応することで、より簡易にこのゲームに参加することができる。

 そして第2に、この0か1か、YESかNOか、敵か味方かに線を引くコミュニケーションこそが、自分たちはあの人たちとは「違う」のだとプレイヤーに直接的な承認を与えるためだ。プレイヤーの目的は問題の解決や再設定ではなく、問題についての応答による評価の獲得だ。他のユーザーからの評価を獲得するためには、その承認への欲求に訴えることがもっとも効果的であることを、いまやほとんどのプレイヤーが経験的に知っている。

 そしてこのような今日の情報環境下においては常に問題そのものではなく、問題についてのコミュニケーションのほうがクローズアップされ、世論を形成する。そう、問題はむしろ民主主義がインフォデミックを抑制できないことにある。今日の民主主義においては情報戦を制し、的に述べればインフォデミックを意図的に引き起こして制御することが、もはや定石となりつつある。

 そう、今日の世界において問題そのものが正しく議論の中心となり、民主主義下の意思決定に寄与することはほとんど期待できない。今日の情報環境下においては、民主主義の基盤をなす「世論」の形成過程で問題そのものを議論することが難しくなるのだ。

※1・・・津田大介『動員の革命 ソーシャルメディアは何を変えたのか』中公新書ラクレ、2012年