文春オンライン

「コロナ・ショックは人間をSNSに閉じ込めた」世界中がパンデミックに怯えた結果…未知のウイルスがもたらした“本当の混乱”

『砂漠と異人たち』 #1

2022/10/20
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SNS普及当初に生まれた「動員の革命」という言葉の意味

 このゲームは、パンデミックについての情報を決定的に、しかも長期にわたって混乱させることになった。そして人類は、この(インフォデミックに支援された)パンデミックに、こうしている今も翻弄され続けているのだ。

 しかしより正確には、コロナ・ショックの以前から人間たちは現実の問題ではなく、閉じたネットワークの相互評価のゲームに閉じこもっていた。実のところ、コロナ・ショックはそれを後押ししたにすぎなかった。

 今から10年ほど前にSNSが普及しはじめたとき「動員の革命」という言葉が生まれた(※1)。新聞やテレビというマスメディアを介したトップダウンの動員に対して、SNSの普及は市民1人1人の自発的な発信の連鎖が生むボトムアップの動員を可能にする。「動員の革命」は情報技術に支援された、あたらしい民主主義の起爆剤となる期待を込めた言葉だった。

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 マスメディアによるトップダウンの動員に対して、SNSによるボトムアップの動員はその動員力そのものでは劣るものの、動員された1人ひとりの参加者のより強い没入をもたらす。マスメディアのもたらすものが他人の物語への感情移入であるのに対し、SNSのそれは自分の物語の発信である。人間とは本質的にそれがどれほど希少でロマンチックなものであったとしても他人の物語を聞くより、それがどれほど凡庸で陳腐なものであったとしても自分の物語を語るほうに強い快楽を覚える。

 そして現在において情報技術に支援され、人間は動員された非日常での体験を「自分の物語」として発信することを覚えた。そして、その発信がほんの少しでも他の誰かを、社会を動かすと信じられるとき、人間は自己の存在が承認されたと感じる。ここに「動員の革命」の特徴があった。

写真はイメージです ©iStock.com

 そして「アラブの春」から、東日本大震災後の反原発デモまで世界を席巻した「動員の革命」は、決して市民運動にとどまる現象ではなかった。音楽産業における夏のロック・フェスの定着が象徴するCDの販売からライブの動員へ収益構造の変化、「観る」アニメから「推す」アイドルへの国内サブカルチャーの中心の移動、そして「インスタ映え」による小売店や観光地の集客……すべてそうだ。

 まさに政治からサブカルチャーまで、2010年代は情報技術(具体的にはSNSのプラットフォーム)が人々をサイバースペースの日常から実空間の非日常に「動員」していた時代だった。そして他人の物語に感情移入する時代から、自分の物語を発信する時代へ切り替わった時代だったのだ。

 しかし、今日において「動員の革命」を可能にしたSNSのプラットフォームは、あたらしい民主主義の起爆剤になるどころか、むしろ民主主義の行き詰まりに加担しているのが現状だ。2016年に世界を揺るがしたブレグジットとトランプ、2つの事件が象徴するように、今やSNSとは多くの国々の社会において排外主義的なポピュリズムの温床となって久しい。

 SNSの発信する快楽に根ざした動員と没入のメカニズムは──人々を非日常的な自分の物語へと動員するメカニズムは──人間を「考える」ことから遠ざけている。それは一方ではフィルターバブルによって自分たちは見たいものだけを目に入れ、聞きたいものだけを耳に入れることで精神を安定させたい人々にフェイクニュースや陰謀論という名の麻薬を与える装置となり、もう一方では、正義の名のもとに他の誰かに石を投げる私刑の快楽を手放せなくなった人々に安価で高性能な投石機を与えている。

 そしてこのとき、タイムラインから街頭へ続く回路は、もっとも閉じた場所になっている。民主主義という個人の能力の高低にかかわらず、すべての人々に平等な参加の権利を与える装置は、SNSという新しい武器を備えることで進化した。誰もが簡単に声を上げる力を得たことそのものを、決して否定すべきではない。しかしこの武器を有効に用いるためにこそ、その副作用に対して目をつぶるべきではないことは明白だ。

 なぜ、このようなことが起こってしまったのか。「動員の革命」とは、言い換えれば誰もが当事者として「自分の物語」を発信する快楽を得られる環境に依存した動員だ。しかし多くの人々が、その快楽の中毒となり、発信すること自体が目的化することでものを考える力を失ってしまっているのだ。