文春オンライン

連載地方は消滅しない

20年ぶりのカーリング男子五輪出場を支えた軽井沢の町民と地元企業

地方は消滅しない――長野県軽井沢町

2018/01/23
note


 カーリングは氷上で約20キログラムの花崗岩のストーンを滑走させ(投げ)、約40メートル先の円(ハウス)に入れる競技だ。チームは4人。各選手が2回ずつ、相手チームと交互にストーンを投げ合う。

 全員が投げ終わった時のストーンの位置が、ハウスの中心に近いチームがその回の勝ちで、得点になる。公式ゲームではこれを10回(10エンド)行って合計得点を競う。

 ストーンは投げる時の回転で曲がる。氷はブラシで擦ると滑らかになるので、進行方向や距離が一定程度コントロールできる。これによって相手のストーンに当てて弾き出したり、味方のストーンを守るために壁として置いたりする。「氷上のチェス」とも呼ばれている。
 
 発祥は500年ほど前のスコットランドとされ、欧米に広がった。最も盛んなのはカナダだ。日本では戦前に長野県の諏訪地方で行われたものの、戦争で廃れた。その後、本格的に導入したのは北海道で、軽井沢より10年ほど進んでいた。

ADVERTISEMENT

 0.1秒を争う競技ではない。スピードスケートの国体選手だった長岡さんには「遊び」に見えた。

 だが、実際にストーンを投げようとすると、バランスが崩れ、何度も何度も転倒した。「なぜ、この程度のことができないのか」。元選手の闘争心に火がついた。

 民宿を経営していた土屋長雄さん(57)は同年、青年会議所の集まりで長岡さんに声を掛けられた。

 スケート、テニスとスポーツに支えられてきた軽井沢の観光は当時、陰りが見え始めていた。北海道のカーリングを紹介するテレビ番組を見た土屋さんは「気候が似ている軽井沢でもできないか」と考えていた。誘いには二つ返事で乗った。

 松村保さん(56)は会社の配属先が軽井沢になり、東京から移住したばかりだった。ふと訪れたイベントで、ビニールシートに氷を張り、カーリングのデモンストレーションをしていた長岡さんや土屋さんに呼び止められた。氷の上に立つのも精一杯だったが、移住先での友達作りなどもあって加わった。

 こうして仲間が増えていく。練習は夜遅くにスケートリンクを借り、氷上にマジックで円を描いて行った。「先生はいません。カナダの選手のビデオを見て、一番まねがうまかった人の動作を、皆でまねました」と松村さんは笑う。

 氷を平らにする技術もなかった。カナダからチームが来た時には、世界的に有名な選手がホースで水をまいて平らにしてくれた。

 そうして「習熟」していくうちに競技の面白さが分かっていった。

町内にはカーリング地蔵もある(泉洞寺)

 始めてから4年後の1991年、長野五輪の開催が決まった。IOCは開催都市の長野市が承諾すればカーリングを正式種目にすると決めたが、施設の建設費がなかった同市は引き受けを断念した。代わりに浮上したのが軽井沢町だ。県内では競技人口が集中しており、会場に使えるアイスアリーナもあった。1964年の東京五輪で馬術競技を引き受けた経験もあった。

「当時の知事、県カーリング協会の初代会長の県議、同協会理事長の小林貞雄さんが知事室に集まり、軽井沢町長を呼んで説得しました。町長は30分ほど黙っていましたが、最後に『町議会に提案する』と約束したそうです。この会合がなければ長野五輪でカーリングは行われませんでした。軽井沢から五輪選手が出ることもなかったでしょう」と土屋さんは秘話を披露する。

 この頃から「専用リンクが欲しい」という声が上がり始めた。スケートで表面がデコボコになるような多目的のリンクでは、ストーンを計算通りに投げられない。

 長岡さんらは1995年、隣町で空き倉庫を借り、屋内にカーリング場を手作りした。翌年には軽井沢町が、夏はプール、冬はカーリング場になる兼用施設を建設した。この施設は長野五輪で選手の練習会場になる。

 長岡さん、土屋さん、松村さん、そして初期からの仲間の藤巻正さん(57)は五輪代表を目指して練習した。しかし北海道勢の壁は厚く、出場できなかった。