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連載地方は消滅しない

20年ぶりのカーリング男子五輪出場を支えた軽井沢の町民と地元企業

地方は消滅しない――長野県軽井沢町

2018/01/23
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負け続けた3年間が勝てるチームにした

 ただ、長岡さんは「世界は近い」と確信していた。

 スピードスケートのような熾烈な争いはない。マイナー競技なのでスポンサーが少なく、進学や就職を機に辞める人が多い。子供の時から取り組んできた選手が続けられる環境を整えられれば、世界と戦えるチームが作れると考えた。

 長岡さんは2004年、NPO法人のスポーツクラブ「SC軽井沢クラブ」を設立して理事長に就任した。同クラブでは両角友佑さんらを所属選手にして、育てていった。

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 友佑選手は五輪の申し子だ。軽井沢中学校1年生の時、母親に連れられて、弟の公佑(こうすけ)選手(29)と一緒に長野五輪のカーリングを見に行った。ルールは分からなかったが、大勢の観客に驚いた。

 町は長野五輪の3年前から地区対抗カーリング大会を開いていた。母親は体育振興の世話役をしており、この大会にも連れて行かれた。しかし「子供だから」とストーンに触らせてもらえなかった。「自分もやってみたい」と中学2年生の秋、野球部からカーリング部に移る。「面白かったけど滑るのが下手でした」。上手になりたいと練習するうちに、めきめき頭角を現していった。

 SC軽井沢クラブには選手として所属するだけでなく、大学卒業と同時に職員になった。

 チームには北海道生まれの山口剛史(つよし)選手(33)、弟公佑選手、町出身で別のチームに属していた清水徹郎選手(29)が集まった。山口選手は同じくクラブ職員になり、清水選手は長岡さんの鉄工会社に入った。公佑選手は長岡さんの取引先に採用された。生活の心配なく競技が続けられるよう、長岡さんが汗をかいたのだ。こうした職場に恵まれた男子選手は、国内にほとんどいない。

 チームは2007年から3年連続で日本選手権を制した。

 だが、2010年から3年間は負け続けた。「それまでより少しずつ難しいことをしていこう」として技術がついていかなかったのだ。負けてもその姿勢を崩さなかったのは、「世界と戦うには必要だ」という信念があったからだ。が、五輪の強化指定を外され、助成もなくなった。それでもチームは毎年、海外遠征した。「世界」を見続けていたからだ。1部屋に4人で泊まるなどしながら、武者修行を続けた。

 この3年間で友佑さんらは、地元で応援してくれる人々の温かさに気づいた。ファンクラブには、町民を中心に200人以上が入会し、少しずつお金を出してくれていた。辛抱強く資金を援助してくれる地元のスポンサー企業もあった。

 町内では、前述の地区対抗だけでなく、町長杯、消防団の地区対抗、ジュニアと、年間を通じて多くの大会がある。職場での懇親試合なども含めると多くの住民がカーリングをするようになっていた。各小学校では必ず体験学習が行われる。

軽井沢国際選手権では子供達が世界のトップ選手に学んだ

「軽井沢から五輪選手を」と期待する人が増えていた。「僕ら以上にカーリングのことを思っている人々に支えられている」(友佑選手)という自覚が、追い詰められても崩れない精神力につながっていった。

 2013年、町は通年型のカーリング場「軽井沢アイスパーク」を建設した。同年からSC軽井沢クラブの快進撃が始まる。日本選手権で5連覇。国際試合でもポイントを稼ぎ、ついに五輪への切符を勝ち取った。

 軽井沢で最初にカーリングを始めた人々は、今も競技を支えている。土屋さんはアイスパークの施設管理のほか、中学生の指導に当たっている。藤巻さんは氷を作る“職人”として、やはりアイスパークで働いている。松村さんは軽井沢を拠点にして五輪を目指す、中部電力の女子カーリング部のコーチを務める。

「男子の五輪出場は、彼らのためだけではありません。社会や企業が注目すれば、それだけ競技を続けられる選手が増えるかもしれないのです」と土屋さんは力を込める。

「重い役割ですね。でも頑張ります」。友佑選手は快活に笑う。

「カー男」の活躍に期待しよう!

(写真=筆者)

20年ぶりのカーリング男子五輪出場を支えた軽井沢の町民と地元企業

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