1980年から1983年にかけ、『少年サンデー』(小学館)に連載された「プロレススーパースター列伝」。『巨人の星』や『あしたのジョー』を生み出した大物原作者・梶原一騎の格闘ロマンと、駆け出しの漫画家だった原田久仁信氏による作画が見事な調和を果たし、「プロレス漫画の金字塔」と呼ばれたこの作品は、オールドファンの間でいまなお熱く語り継がれている。
空前のブームに沸いた80年代のプロレス黄金時代と、史上最高部数を記録した『サンデー』全盛期が重なり、すべてが輝いていたあの時代。『列伝』に語り部として登場し作品の人気に貢献したアントニオ猪木氏の死去を受け、原田久仁信氏が追悼の劇画を寄稿。合わせて『列伝』の時代を語る。
猪木さんが亡くなる前日、ちょうどプロレスの仕事の打ち合わせがあって『列伝』のことを思い出していました。僕にとって猪木さんは、梶原一騎先生と同じくマンガの世界で生きる契機を与えてくれた恩人。いまはただ、感謝しかありません。
子どものころ、実家によくパイナップルが送られてきたことがありました。僕の伯父と、ブラジルに住んでいた猪木さんの実兄の相良寿一さんが拓大時代の同級生で、伯父のところに送ってくれていたんです。
でも僕がその関係を初めて知ったのは、『列伝』の連載が始まってからでした。家族はみんな知っていてなぜか自分だけ知らなかったのですが、それを聞かされたときは何かの運命なのかなあと思いましたね。
猪木さんが登場する劇画をあれだけ描かせていただいたのですが、実は僕は猪木さん本人と直接話したり、取材した経験はありません。すべて梶原(一騎)先生の原稿を通じてアントニオ猪木を知る、という形でした。
「猪木さんは、僕の目をじっと睨んで視線をそらさない」
ただ、初めて猪木さんを生で見たときのことは強烈に覚えています。『列伝』の連載中、関係者に誘われて蔵前国技館に新日本プロレスの試合を見に行ったら、「控室入れるけど行ってみる?」と言われたんです。
「ええっ、入れるんですか?」
当時の僕はまだ駆け出しの漫画家で一般のプロレスファンと同じ感覚でしたから、喜んで控室へ行きました。大きな鉄の扉を開けると、猪木さんがイスに座ってその周りを大勢の記者や関係者が取り囲んでいる。「おおすげえ! あれが本物のアントニオ猪木かあ!」と思いましたよね。
そのまま遠巻きに猪木さんを見ていたとき、バチッと目が合ったんです。猪木さんは、僕の目をじっと睨んで視線をそらさない。猛獣のようにこっちを見据えてくるものだから、眼力で全身が固まってしまって僕は動けなくなっていまいました。
そのまま5秒くらいかなあ……記者の人たちが猪木さんに話しかけて“にらみ合い”は終わったんですけども、僕にとってはそれが30秒にも1分にも感じられるほど、長い時間でした。金縛りって、本当にあるんだなと思いました。