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「毎週、猪木さんにはお話を…」「おめえナニ言ってんだ」プロレス漫画の金字塔を描いた漫画家が振り返る、アントニオ猪木と梶原一騎の「何もかもが規格外だった」時代

「毎週、猪木さんにはお話を…」「おめえナニ言ってんだ」プロレス漫画の金字塔を描いた漫画家が振り返る、アントニオ猪木と梶原一騎の「何もかもが規格外だった」時代

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 週刊連載で20Pのマンガを描くのは本当に大変でした。梶原先生の原稿が来てから、完成させるまでに長くて4日。編集さんからは「(梶原先生の原作でマンガを描く)他の先生は2日で仕上げているんだから、これでも恵まれているほうなんだぞ」と言われました。

 4日で描くと言っても、最後の30時間ぐらいは不眠不休、飲まず食わずでやっと完成するわけです。編集さんに原稿を渡しても、ハイになっているからすぐには眠れない。なのでスタッフとボウリングに行ったり酒を飲んだりして、燃え尽きたところでやっと眠れる。そんなことの繰り返しでした。でも僕もまだ30歳くらいでアシスタントも若かったので、苦しんだという記憶はありません。青春でしたね。

2017年には「生前葬」を行っていたアントニオ猪木

 マンガは特にプロレス技を描くのが難しいんです。夜中に幡ヶ谷の仕事場で、アシスタントに足四の字固めをかけてもらったり、裏返しになったりして形を確かめていました。それで、裏返しになっても技をかけられたほうが痛いことがわかったり(笑)。ロメロスペシャル(吊り天井固め)はかけることすらできなかったなあ。

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 仕事のために、当時は値段が高かった家庭用のビデオデッキを導入しました。最初に間違えてベータを買ってしまったものだから、後でVHSも買ったりして、ずいぶんお金がかかりました。でもプロレスの試合を録画したり、ファンクス兄弟の風景のイメージを探して西部劇を観たり、ブッチャー編の資料でカンフー映画を観たりするのに重宝しました。

 当時と比べると、いまはネットでいつでも画像や映像を検索できるでしょう。本当に便利な時代になったと思います。

サンデーの編集長に言われた「人気投票で3位になったよ」

『列伝』の内容は確かにファンタジーですが、梶原先生でなければ、あそこまで大胆な創作はできなかったと思います。また、時代がそれを許してくれました。現代の創作活動は縛りや制限が非常に厳しくなっていますが、当時のスケール感や表現の幅を懐かしく思うこともあります。

 おそらく『列伝』の読者にも、作品の内容もさることながら、この作品が生まれた時代への郷愁があるのだろうと思っています。何もかもが規格外だった梶原先生が輝くことのできた最後の時代に、作品を描かせてもらえたことは本当に幸運でした。

初代タイガーマスク

 1981年に初代タイガーマスク(佐山聡)がデビューし、その人気と並走する形で『列伝』が現実を追いかけていた時期に、『サンデー』の編集長に褒めてもらえたこともよく覚えています。

「原田君、人気投票で3位になったよ……でも3位じゃまだまだだな!」

 でも1位と2位は不動(『うる星やつら』『タッチ』)なんだから、僕のなかでは実質1位みたいなもの。「3位じゃまだまだ」って言われてもなあと思って勝手に喜んでいましたよ(笑)。

『プロレススーパースター列伝』が突然打ち切りになったのは、1983年でした。タイガーマスク編が終わった次の年です。直接的には梶原先生の暴力スキャンダルが原因でしたが、体調の問題もありましたし、『列伝』が打ち切りになった直後に、新日本プロレスでは初代タイガーマスクの電撃退団や猪木さんが社長を降ろされる「クーデター事件」なども起きましたので、何にしても連載は終わるタイミングだったのかもしれません。