今年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻。開戦当初は、ロシアが短期間に勝利すると見られていたが、ウクライナは首都キーウを防衛し、ロシアは東部など一部地域の占領にとどまった。そして、9月にはウクライナが反攻に転じ、東部地域の奪還に成功。一方、ロシアは戦死者が相次ぎ、国民への“動員令”が発令されるなど、苦境を隠し切れなくなってきた。ロシア・ウクライナで今、何が起きているのか。「週刊文春」の記事を再公開する。(初出:「週刊文春」 2022年9月29日 年齢・肩書き等は公開時のまま)
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2月の開戦以来、一進一退の攻防が繰り広げられるロシアによるウクライナ侵略。9月上旬になって突如、ウクライナ軍が攻勢を強め領土3000平方キロメートルを奪還した。日本でいえば、東京都(2200平方キロメートル)よりも広い。現地で一体何が起きているのか。
「9月6日、ウクライナ軍が猛烈な反転攻勢を始めました。場所はロシアと国境を接する東部ハルキウ州。ウクライナ軍はロシア軍の拠点にされていた要衝イジュームを奪還。ロシアの侵攻計画は見直しが必要でしょう」(軍事ジャーナリスト)
米戦争研究所によれば、10日までにウクライナ軍が奪還した領土は、4月以降にロシア軍が占領した領土を上回るというから、まるでオセロの駒をひっくり返すような逆転劇というほかない。
『独ソ戦』の著者で現代史家の大木毅氏が話す。
「ウクライナ軍の勝因の1つは、徹底的にアメリカ型のドクトリン(戦闘教義)に転換したことです。2014年にクリミアを占領されてから、ウクライナは徐々に西側の装備を導入し、軍の根幹である用兵思想までもアメリカ式にしたのです」
一体、どういうことか。
「米軍のドクトリンには『敵にジレンマを強いる』とあります。つまり敵にどちらに転んでも不利な二者択一を迫る。ウクライナはこれを忠実に実践しました。反攻前の状況を整理すると、ロシア軍は南部ヘルソンで苦戦していました。ドニプロ川にかかる橋を破壊され、増援も来ない状況です」(同前)
ウクライナがロシア側に迫った選択は2つ。
(1)南部を見捨てて東側の守りを固める。
(2)東側の兵力を割いて南部を助ける。
ロシアは(2)を選んだ。
「東部が手薄になることを恐れてロシア軍が南部に戦力を送らなければ、南部で本格的攻勢が発動されて、大損害をこうむっていたでしょう」(同前)
次に鍵となったのが西欧諸国から提供された戦車をはじめとする装甲車両の温存だった。大木氏が続ける。
「夏のウクライナは遮るもののない大平原。戦史を紐解くと1日で20キロの進撃が可能な土地柄です。それをわかっているのになぜ機甲部隊(戦車を中心とする機械化部隊)を7、8月の段階で投入しないのか、不思議に思っていました。ウクライナは、提供された戦車などを小出しに投入せず温存していたのでしょう」
米が供与したミサイルシステム「ハイマース」にばかり注目が集まったが、ポーランドやチェコはT-72(戦車)、オーストラリアはブッシュマスター(装甲車)など各国が兵器を提供した。
元防衛大学校准教授で軍事研究家の関口高史氏は3つめの勝因としてロシア軍の脆弱さを挙げる。