『フィールダー』(古谷田奈月 著)集英社

 社会正義の実現のために生きてきた者が、自身のなかにそれと背馳する熱情を発見してしまったらどうするべきか。あるいは自身が属する組織のなかに、みずからの信条と相容れない価値観をめぐる深刻な分裂が起きたときはどうか。古谷田奈月の最新長編である本作は、この問いを読者の胸元に突きつける。

 総合出版社でリベラルな価値観にもとづく良心的な小冊子を編集している主人公の橘泰介は、同じ社内の週刊誌記者・百瀬から、児童福祉の専門家である黒岩文子が小学生の少女に「性的接触」をした疑いがあると知らされる。

 橘のもとには黒岩から、アカツキという少女との出会いによって「わたしは今自分の歴史、自分の人生を捨てつつあります」と告白する手記が届いていた。橘は黒岩の無実を信じつつ、彼女への接触を図る。百瀬から与えられたタイムリミットは2日。それまでに納得の行く説明が得られない場合、取材を始めるというのだ。橘は黒岩がしたことの真実を描くには「1年と30万字」が必要だと主張するが、百瀬はそれを一笑に付す。

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 アカツキとの出会いによって黒岩をすっかり変えてしまったのは、自身の中に湧き上がる「かわいい」という理性を超える感情だ。この感情を肯定しつつ、これまでの自分の生き方に「筋を通す」ため、黒岩はある〈フィールド〉に足を踏み出すことを決める。これまではフィールドワーカーとして外部から眺めていたその場所に、自らの足跡を深く刻印するために。

 戦場という意味もある〈フィールド〉という言葉は、この作品で二重の意味をもっている。橘は仕事以外のプライベートな時間の大半を『リンドグランド』というオンラインゲームに費やしている。橘は「迎撃団」と名付けられた4人組グループでモンスターを倒す「戦士」の1人なのだ。オンラインで長い時間をともに過ごすうち、彼は「迎撃団」の「隊長」に対して、黒岩がアカツキに対して抱いたのと同様の感情を抱くようになる。橘はやがて黒岩と同じような決断を迫られるだろう。

 基本的にリアリズムの筆致で描かれるこの作品のなかで、「熊みたい」な大柄な女性として描かれる黒岩と、姿の見えないヴァーチャルな存在である「隊長」だけは、神話的な〈英雄〉としての性質を負っている。古谷田奈月の小説ではファンタジックな文体と怜悧な認識とが同居するのがつねだが、この作品もその例外ではない。

 加速するデジタルネットワーク社会のなかで、善悪をめぐる二分法はひどく単純化され、即座に断罪されるようになった。だが黒岩は自身の断罪を社会にではなく、その外部の〈フィールド〉に委ねた。小説の居場所もそこであると、この作品は静かに告げているように思える。

こやたなつき/1981年、千葉県生まれ。2013年、「今年の贈り物」で日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。17年『リリース』で織田作之助賞を、18年「無限の玄」で三島由紀夫賞を、19年『神前酔狂宴』で野間文芸新人賞を受賞。他の著書に『ジュンのための6つの小曲』など。
 

なかまたあきお/1964年、東京都生まれ。文筆家、編集者、大正大学教授。著書に『失われた「文学」を求めて』『極西文学論』など。