人喰いグマの正体は…
この話からすると、前出のアイヌ山田勘之助、あるいは上士別の2名の農夫を喰い殺したヒグマと同一の個体であった可能性がある。殺害現場がいずれも「名寄に近い天塩川流域」であり、3つの事件が、ひと月程度の期間に集中しているからである。
こうして士別村から各地に広がった人喰い熊騒動は、5名の犠牲者を数えることになったが、しかしそれでも事件は終わらなかった。
今度は旭川近郊の農村で人喰い熊が出没し始め、ついに11月16日、冒頭に紹介した恐るべき猛熊が出現するのである。
2ヵ月足らずの間に7名もの犠牲者を出すのは、開拓史上でも前例のない大惨事である。
なぜこのような重大事件が士別地方に集中したのか。その理由を探ってみると、いくつかの興味深い事実が浮かび上がってきた。
ヒグマの聖地への急激な人口流入
一つ目は北海道開拓との関連である。
『北海道庁統計書』によると、明治以降の北海道の人口は一定して増加し続けるが、殊に明治26年以降顕著となり、毎年およそ4万~6万人の人口が加算されていく。その結果、明治34年には早くも100万人を突破した。
これを支庁別で見てみると、道東、道北地方での増加が著しく、たとえば前掲記事に出てくる風連村では、明治33年に十数戸の集落に過ぎなかったのが、明治42年には1000戸、6000人を数えるまでに発展している。新たな開拓民の入植が、千古斧を入れぬ密林にまで及ぶことになり、そこに潜む恐るべき猛獣と接触する機会も急増したのである。
一方で北海道が、世界でもっとも人喰い熊事件が多発する特異な地域であることは意外に知られていない。
ヒグマの棲息地域はユーラシア大陸と北米大陸の広範囲に広がっているが、これらの地域の人口密度は世界でもっとも低いレベルである。例外的に人口の多い欧州では、ルーマニアなど一部の国を除いて絶滅の危機にあり、国土が平坦なイギリスでは、早くも11世紀頃に最後の1頭が獲殺されたという。
換言すれば、ヒグマと人間が、共に極めて高い密度で併存する、世界でも珍しい地域が北海道なのである。
二つ目の理由として挙げられるのが、士別地方の特殊な地理的要因である。
開拓史上、ヒグマによる被害がもっとも多かった地域のひとつが士別市だが、地図を俯瞰すると、その理由をある程度、推測することができる。
ひとつは石狩川と天塩川の関係である。南流する石狩川と、北流する天塩川が、それぞれの支流、雨竜川と剣淵川で交錯する、その地点こそが士別市である。つまり両方の川を辿って上流に向かえば、おのずと士別市に至るのである。