雄大な自然からなる絶景が人気で毎年数多くの観光客が訪れる北海道美瑛町。そんな同地にはかつて集中して“人喰い熊”が出没していた時期があった。獣害による被害を重く捉えた自治体は懸賞金をかけて、駆除を実施。そのかいあって美瑛の巨熊は射殺された……と思われたのだが、解剖された熊には不可解な点があった。

 ここでは、ノンフィクション作家・中山茂大氏の新刊『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)より一部抜粋。獲殺の実情について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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巨熊が大人の女性を手玉に取る

 解剖された熊は、多くの人を喰ったにもかかわらず、非常に痩せていて、体重は40貫(150キログラム)にも満たなかったという(『北海タイムス』大正元年9月20日)。

©AFLO

 しかし不可解な点が残された。

 それは射殺された熊が、目撃証言にあった「馬よりも大なる熊」とはほど遠い、中型の痩せた熊であったこと、さらに回顧談にある仔連れ熊ではなかったことである(記事中には残念ながら性別についての言及がない)。

 当時は人心を安んずるために、討ち取った熊が人喰い熊ではない別の熊であったとしても、加害熊であるかのごとく喧伝する傾向があった。実際に筆者も、いくつかの人喰い熊事件について、直後に加害熊を討ち取ったにもかかわらず、翌年の新聞に「昨年の事件を起こした熊と思われる」といった記事が掲載されているのを、少なくとも3例は知っている。

 そのひとつが明治43年に深川村で起きた人喰い熊騒動である。

わずかひと月後に新たな人喰い熊事件が発生

 この事件は、雨竜郡深川村字メムに1尺以上もあるヒグマの足跡が見つかり、地元若者らによる熊狩りが行われたが、手負いとしたのみで逆襲され、矢野春吉(20)が即死、更谷清似(19)が重傷を負い7ヵ月後に死亡した(『誕生会創立七十周年 農業協同組合創立三十周年 記念史』深川市農業協同組合、昭和53年)。

 新聞報道では、「この稀代の大熊も数発の弾丸を受けて、ついに妹背牛植田重太郎地先にて死亡し居たるを発見」(『北海タイムス』明治43年8月1日)となっているが、2年後に次の記事がある。

「雨竜郡秩父別村一条通七丁目唐黍畑へ大熊一頭現れし噂に、十六日午後二時木村喜助、細川春次、青木房吉の三人現場へ出発せしが、この大熊はたぶん昨年夏〔筆者註:一昨年夏の間違い〕深川村メム五号更谷某外一名を喰い殺せし熊ならんとて目下三名にて大捜索中なり」――『北海タイムス』大正元年10月21日

 では直後に獲殺されたのは何だったのかということになるわけだが、とりあえず一頭を討ち取って村人を安心させ、同時に遺族の慰謝としたということだろう。

 そして案の定というべきか、小山田が襲われた、わずかひと月後に、新たな人喰い熊事件が発生したのである。