9月21日、上川郡美瑛駅前の釣師中村藤吉(63)が市街地から2里(8キロメートル)のルベシベ五線川へヤマベ釣りに出かけたまま戻らず、23日になって熊の被害に遭ったものと近隣の者数名が捜索したが、やはり見つからなかった。24日になって熊撃ち名人のルベシベ御料地農夫、齋藤金五郎が二名を従えて五線川を遡っていくと、焚き火の形跡を認め、付近は丈余の熊笹が茂り、いかにもヒグマが隠れていそうなので、1人が投石すると、小牛ほどもある巨熊が躍り出て猛然と飛びかかってきた。すかさず発砲すると、肩胛骨に命中し、なおも逃げ出す熊の背に追い撃ちをかけ、3発で仕留めた。その後付近一帯を捜索すると、ほど近い大木の根元に左足両手、顔面、臓腑が食い散らされた藤吉の死体が埋めてあるのを発見し、直ちに帰村して急報した。
「この人喰熊は丈七尺[約二百十センチメートル]重量六十貫[二百二十五キログラム]五歳の牝熊で、去る六月同村の近藤某外一名を喰殺した熊も同一のものらしく、同日市街地へ馬車で運搬の途中、一人が熊の背中に馬乗りになったところ、口中から前日飽食した人肉を多量に吐出した、その凄惨な様に人々は思わず戦慄して面をそむけせしめた」――『小樽新聞』大正14年9月27日
手負いの母熊が釣り人を4名までも喰い殺したのか
事件現場であるルベシベ川は、十勝から石狩に抜ける最短経路で、熊の通り道であったことが推測される。『富良野市史 第二巻』(昭和44年)によると、「アイヌらは上富良野町江幌から美瑛川支流のルベシベ川上流に出て、山を越して一気に空知川を下っていたものと思われる」とあり、古来アイヌの踏み分け道であり、同時にヒグマやシカなどの通路でもあったらしい。
事件に至るまでの加害熊の足取りを追うことは不可能に近いが、次のような記事もある。
「美瑛村藤山農場に仔熊を連れたる巨熊出没し、作物をくい荒らし夜間、空小屋数軒を破壊し鶏舎を襲う等危険なるため(中略)総出にて追撃せるも、わずかに手負いをせしのみに終わり、手負い熊の復讐を恐れ、隣接せるもの三四軒ずつ集団就寝の有様なり」――『北海タイムス』大正12年10月19日
この手負いの母熊が、釣り人を4名までも喰い殺した加害熊であったかもしれない。