「〔大正三年六月〕美瑛村字美瑛忠別御料農地、中澤直三郎(八三)は、去る十二日早朝、志比内山中に蕨採りに行くと称して家を出たまま帰宅しないので、志比内青年会員等が大捜索するも今日まで判明せず、志比内東方二里の山中は熊の巣とも称すべきところなので、迷い入って熊の餌食になったのではないかという」――『北海タイムス』大正3年6月21日より要約
「〔大正四年四月、美瑛村南西の〕芦別村上班渓の村上弥太郎が、奔茂尻の林兵吉方に一泊し翌日、兵吉の弟某をともない山に入ったが、一頭の巨熊と三頭の仔熊の足跡を発見したので、弥太郎は兵吉の弟に『お前は素人で危ないから』と帰らせ、一人で深林中に分け入ったまま行衛不明となった。そして二十日余りを経ても帰宅しないので、たぶん熊に喰い殺されたものであろうと、七日に至って捜索隊を解除した」――『小樽新聞』大正4年5月11日より要約
「〔大正八年十月〕七日午後一時頃、〔美瑛村北隣の〕神楽村西御料地、島チヨ(四三)が自宅から四十間の水田で稲刈り中、付近山林より現れた一頭の巨熊に襲われ、左耳下に骨膜に達する咬み傷および頭蓋骨露出に至る重傷を負い、ついに死に至った」――『小樽新聞』大正8年10月9日より要約
この事件については白昼起こったので、目撃者が多かったようである。
懸賞金をかけた盛大な熊狩り
「瞬間クマはパッと飛びかかって母親の髪の毛をつかむとグッと怒れる形相もの凄く力一杯引っぱった。とたんに髪は頭の皮と共にスポリとかつらのようにぬけた。力余った熊はどっと後ろへ尻もちをついた。
自分の引力に手ごたえがなくハズミを喰ったので、更に怒り狂った熊は母親の帯をつかむなり棒立ちとなって彼女を空へ向かって投げ上げた。そして落ちてくる彼女を両手で受けとめてまた投げ上げ、受けとめては投げ上げ、何回ともなく子供の手毬遊びのように繰り返えすのであった。その間、助けてくれ助けてくれというかの母親の声はあたりの静寂を破って悲しく響いた」――『開拓秘録―北海道熊物語―附北海道開拓屯田史稿』宮北繁、1950年
そのうち叫び声を聞いた駅員たちがこの有様を発見し、直ちに市街地に知らせ、人々が線路伝いに駆けつけたが、人間を手玉にとっている巨熊にどうすることもできず、ただ傍観するのみであった。ヒグマはチヨが死んだのを知ると、土を掘って死骸を埋め、上から土をかけて立ち去った。