昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

「顔面は滅茶滅茶に咬み裂かれ、左手は切断…」人喰いヒグマ事件が“世界で最も多発する土地”の正体

『神々の復讐』 #1

2022/11/13

 わずか2ヶ月で7人が惨殺……世界で最も「人喰い熊事件」が多発する土地とはいったい? ノンフィクション作家・中山茂大氏の新刊『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

いったいなぜ2ヶ月余りで7人もの犠牲者が……? 「世界で最も人喰い熊事件」が多発する土地の惨劇をお届けする ©getty

◆◆◆

2ヵ月で7人の犠牲者

「当麻村、松山猪之助(34)という農夫が、16日午後2時頃、自宅より2町程へだたりたる石狩川沿岸の森林において伐材に従事したるまま、おそくまで帰宅せざるより、翌17日午前4時頃、家人両3人が同森林に至り見たるに、猪之助は無惨にも熊の咬殺に遭い、顔面は滅茶滅茶に咬み裂かれ、左手は切断され腹部に大なる裂創を負い臓腑露出し、見るもいたましき惨死を遂げ居たりければ、

(中略)永山村番外地居住の狩猟業者山畑役蔵(38)は猟銃を肩にし若者5人を引き連れ、ひそかに猪之助の咬み殺されたる森林に忍び至りたるに、1頭の大熊猛然として前方にあらわれ、ツカツカと役蔵等を目がけて飛びかからんとしたる一刹那、役蔵は狙いを定めて射撃したるに、誤たず急所に命中せしかど、熊は猛り狂いて役蔵に飛びかかり銃をもぎ取り、役蔵の右顔面に咬み付き両腕を肩部よりもぎ落とし、胸部腹部とも滅茶苦茶に引き裂き内臓露われ、遂にこれも無惨の最後を遂ぐると同時に、急所の痛手のため熊もそのままその場に息絶えたるより、恐る恐る5人の若者は傍近く進み検め見たるに、丈7尺〔約2.1メートル〕年齢7歳の牡熊なりと」

 これは『北海タイムス』明治41年11月20日からの抜粋だが、まさに壮絶としか言いようのない猛熊の死にざまである。

 明治41年といえば、日露戦争大勝利の熱気がいまだ冷めやらず、北海道では青函連絡船が開業するなど、殖民事業が拡大していった時期であった。

 この年はまた、ヒグマによる犠牲者がもっとも多かった年として記憶される。

 記録が残っている明治37年以降で、ヒグマによる死者数がもっとも多い年は、明治41年と大正4年(いずれも14名)だが、大正4年は、かの「苫前三毛別事件」(死者7名)があった年なので当然として、明治41年には、いったいなにがあったのか。

 調べてみると、この年の9月から11月の、わずか2ヵ月足らずの間に、現在の士別市を中心とした狭い地域だけで、7名もの犠牲者が出ていたことが判明した。

最初の人喰い熊事件は…

 事件の経過を、順を追って見てみよう。

 最初の人喰い熊事件が発生したのは、明治41年9月21日のことであった。

 午前10時頃、上士別十線の風防林に1頭の巨熊が現れ、農作物を喰い荒らしているのを、所有者である吉川浪松が発見した。吉川は同行の小作人と共に猟銃で射殺しようとしたが逆襲され、両人とも無惨な最期を遂げてしまった(『小樽新聞』明治41年9月23日)。

 一度に2名が惨殺されるというショッキングな事件に、付近住民は恐慌を来し、すぐに熊狩りが行われた。その結果、上下士別村周辺で合計7頭ものヒグマが銃殺された(『小樽新聞』明治41年10月5日)。

 この熊狩りの最中に、ヒグマと誤って仲間を銃撃し、1名が死亡、1名が重傷を負うという重大事件が起きたが、それはともかく、9月以降、十数頭が出没していた士別村のヒグマ騒動も、一応の決着を見たのであった。

 しかし事件はこれだけでは終わらなかった。