もうひとつは標高との関係である。北海道北東部を南北に走る天塩山地が、ピッシリ山(1032メートル)と三頭山(1009メートル)間の霧立峠(387メートル)で大きく標高を落とす。この峠を東に下っていくと、添牛内集落、次に温根別村、そして士別の市街地に至る。
最後に石狩平野との関係である。石狩平野の入植が早い段階から進んだため、増毛山地のヒグマは南への道を絶たれ、北上せざるを得なくなった。
なぜヒグマが多量発生したのか?
これらを総合すると、次のようなことが言えるだろう。
石狩川、天塩川、そして日本海に囲まれた一帯のヒグマが、北海道内陸部に移動するために、もっとも都合のよい通り道が霧立峠である。言い換えれば、この地域を巨大な巾着袋と仮定して、その出入り口に当たるのが士別市なのである。
この地域がヒグマの通り道であったことは、当時の地元民の証言からも知ることができる。
「熊は、奥士別(朝日町)から、士別の川西を経て、南士別、西原、雨竜への通り道であったとも言っていました(「父が残した話題と記録」山口吉高)」――『けんぶち町・郷土逸話集 埋れ木 第1集』剣淵町教育委員会、昭和61年
「おそらく西士別学田から南士別(演武)・イパノマップ、さらに温根別へと熊が通る路であったようです(「さいもん語りと開拓」南條兵三郎)」――前掲書
文中の西原、学田、イパノマップは、いずれも士別市街と温根別集落の中間に位置する地名である。この熊の通り道はアイヌにとって絶好の猟場であったらしく、次のような古老の回想も残されている。
「毎年春になると、堅雪の頃は定期的に、近文アイヌの人達が剣淵駅で下車し、北兵村経由で藤本~北斗を通り温根別の北線や伊文(犬牛別)の羆とりのため何組も通りました(「朔北の地に根づいて」浅井隆則)」――前掲書
文中の西原、学田、イパノマップは、いずれも士別市街と温根別集落の中間に位置する地名である。この熊の通り道はアイヌにとって絶好の猟場であったらしく、次のような古老の回想も残されている。
「毎年春になると、堅雪の頃は定期的に、近文アイヌの人達が剣淵駅で下車し、北兵村経由で藤本〜北斗を通り温根別の北線や伊文(犬牛別)の羆とりのため何組も通りました(「朔北の地に根づいて」浅井隆則)」――前掲書
その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。