「〔近藤の遺体は〕胴体から上はなく、内臓はことごとく喰われ、また手足もむしり取られ、頭は崖の上に発見された。なお濱岸の死体は両足はなく、顔面は傷だらけで、内臓を喰らって土の中に埋めてあったが、実に目もあてられぬ惨状であった」――『小樽新聞』大正14年6月22日
「釣竿はオチャンベツ川へ糸を垂れたままであったが、熊は後方から不意に両人を襲ったものらしく、少し離れたところに魚籠がもぎとられて転がっており、そこから五十間ばかりの所にシャツがむしりとられてあったところから見ると、両名は死にもの狂いで逃げたものと察せられ、その附近にはかなり格闘したらしい形跡もみとめられた。一人の方は頭は胴体から咬みきられて別な個所の岩の上へさらし首みたいに置かれ、一人の胴体は土を掘って埋められていた」――『小樽新聞』大正14年6月24日
また別の新聞では、「美英(ママ)市街地を去る約二里の所に子熊が親熊に番をさせつつ両名の死体を食いおるを発見、ひとまず引き返し青年団、軍人分会その他の応援を得て21日早朝、熊狩りに赴きしも姿を見失えり」(『読売新聞』大正14年6月22日)と報じており、加害熊が仔連れであったことがわかる。
美瑛付近では毎年熊が出没し、前年秋にも巨熊が市街地まで出て来たので、この年には大々的な熊狩りの計画があり、歩兵第28連隊に機関銃を装備した兵隊の出動を要請したが断られたという。
食い散らされた死体が埋められているのを発見
加害熊は未獲のまま夏に入り、ついに3人目の犠牲者が出てしまった。