明治34年7月13日、天塩国天塩村農夫、吉井孫三郎の次男某(19)が天塩市街地へ買物に出かけたまま、翌々日になっても帰らず、家内一同が心配していたところ、15日午後に山中で某の所持品が発見され、あるいは熊のために害せられたものかと、近隣の農夫を頼んで必死に捜索したところ、ようやく17日になって、某が熊のために無惨の最期を遂げているのを発見した。
「その時はすでに被害の時より数日を経たる後のこととて、全身大方は喰い尽くされ、ただわずかに毛髪の付着せる頭蓋部の一片と足の指片とを残せるのみ、骨散り血飛びて見るも無惨の有様なりき。(中略)某の所持せし赤毛布はずたずたに破れありしと、家出の時に新たに穿ち行きたる紺足袋も、これまたずたずたに切れおりしとより察すれば、某はいかに激しく熊と戦いしかを想像するに足るべし」――『北海道毎日新聞』明治34年8月7日
加害熊は「太さは大牛ほどもあり」、さらに「いまなお近辺を徘徊しつつあり」とのことで、村人はこれを銃殺しようと息巻いた。
稀代の凶悪熊
そして3ヵ月以上経ってから「加害熊が撃ちとられた」という続報が掲載された。
「先頃、天塩川筋および同市街地で若者2名とも猛熊の餌食となったが、(中略)このほど遠別村字マルマウツあたりに2匹の子熊を引き連れた大熊が出没し、アイヌ藤吉が幌延村ウブシ原野で撃ちとった。そして「右はまったく農場、市街地の若者どもを惨殺したる猛熊」なりし由」――『北海道毎日新聞』明治34年11月20日より要約
記事によれば、犠牲者は2名であり、撃ち取られた親子熊が加害熊であると断定されたという。
しかしこの親子熊が本当に若者2名を喰い殺した加害熊であったのか。「太さは大牛ほど」という目撃情報は「身長1丈余、黒色」という、砂金掘りを喰い殺した加害熊の特徴と酷似していないだろうか。また被害者の遺体のほぼすべてを喰い尽くす残忍さも共通しており、「他からの渡り熊ではないか」というアイヌの言葉もまた、同一個体による凶行であった可能性を示唆しているようにも思える。もしそうだと仮定すれば、この加害熊は4名を喰い殺し1名を危篤に陥れた稀代の凶悪熊ということになる。
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