野獣が潜む山中で起きた惨劇
当時の「枝幸砂金」を報じた新聞記事に、ヒグマについて書かれたものをひとつだけ見つけた。
「従来は羆熊の跋渉に委ねたる地なりしをもって現時においても往々出没横行して、採取夫を恐怖せしむることありといえども、あえてこれがために被害を受けたることなしという」――『北海タイムス』明治33年9月14日
たしかに1万人ともいわれる人間が山中深くに分け入ったわりには(だからこそ、とも言えるかもしれないが)、ヒグマに関する話題はほとんど記録されていない。
しかし筆者が調べた限りでは、この空前の黄金狂のさなかにも人喰い熊事件が発生していた。しかも人夫小屋を押し破り、2名を引きずり出して喰い殺すという、極めて獰猛なヒグマであった。
明治34年9月14日朝、北見国枝幸郡頓別村字ビラカナイの山中で、富所林吾(52)が起きてこないのを不審に思った近傍の者が、富所の小屋を訪ねてみると、天幕の外部に血痕が付着しているのを発見し、小屋の中を窺うと、鮮血が飛び散り、すこぶる惨状を極めていた。さらに小屋付近の粘土に8寸余の熊の足跡を認めたので、ただちに警察に急報した。そして山中くまなく捜査したところ、小屋の対岸の山腹に林吾が枕にしていた股引、腹掛け、筒袖および鑑札、金員等が残されており、さらに米噌、塩鱒等には熊の歯形が印してあり、それらが一面に散乱していた。
しかし死体はついに発見されなかった。
2日後の9月16日夜、ビラカナイの山ひとつ隔てたイチャンナイの山田砂金採取事務所に1頭の大熊が押し入り、寝臥中の大山栄助を引きずり出し、小屋の外、7、8間のところに投げ出して重傷を負わせた。さらに松吉常吉が熊のためにさらわれ、他の1人は布団の内に潜み、ようやく危害を免れた。栄助は生命すこぶる危篤で、常吉は行方知れずとなった。
山田砂金採取事務所の事務員で元軍曹の浜田建吉は、事件当夜は枝幸に下山していたが、この椿事を聞いてただちに事務所に戻り、負傷者大山栄助を介抱する傍ら、熊の再来を予期して、銃に弾を込めて用意をなした。