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 鉱山監督署の調査では、「枝幸砂金」の最盛期であった明治32年の産金量は約120貫(450キログラム)となっている。

 しかしこれは真実とはほど遠いと言われる。その理由は砂金掘りによる「ホンマチ」であった。「ホンマチ」とは「猫ばば」の隠語で、元は「帆待ち」と書いた。船乗りが港で風待ちしている間に、私的に商品を買い入れて次の港で売るなどして余禄を得る行為を言う。

 砂金掘りの言葉に、「大粒の砂金が採れる現場は潰れる」というのがある。めぼしい金塊は、みな人夫がホンマチしてしまい、上げ金が減ってしまうからである。それほどホンマチが、砂金掘りの間で横行していたのである。

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 一方で、枝幸市中で買い取られた砂金が、180貫余(675キログラム)であったという記録が残っている。しかし仲買商を経ずに郵送したり、持ち帰った砂金も少なくなかったはずである。従ってこの数字も当てにならない。

 鉱区主が申告する産金量もまた当てにならなかった。初期には税逃れのために少なめに申告し、後期には鉱区の転売に利するため多めに申告するからである。

 以上のことから、正確な産金量は推して知るよりないが、工学士西尾銈次郎の『枝幸砂金論』(明治35年)によれば、明治32年の産金量は、270貫(1012.5キログラム)であったと概算している。現在の相場で約80億円である。 

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 80億円の金塊が裏山に埋もれているのだから、老若男女、猫も杓子も、取り憑かれたように山に入ったのは当然のことであった。

 さらに景気のいい話をすれば、日本最大の金塊が採れたのは、明治33年9月のことで、目方は205匁(768.75グラム)であった。浜頓別町郷土史研究会がまとめた冊子『筆しずく』(平成14年)には、この金塊の原寸写真が掲載されているが、それはまさに「手のひらサイズ」である。発見した人物もわかっていて、「ウソタンナイ支流の川で205匁の大塊を発見してお互いに秘密にしていたが、たまたま遊郭で、酒の酔いもあり喜びのあまり遂に漏らしてしまったそうです」(「幌別河口の歴史」三野宮政夫、『枝幸のあゆみ~古老談話集~第二号』)と伝えられる。

 金塊は1匁あたり4円70銭で取引された。概算で963円50銭となり、現在でいえば1000万円近い金額であった。

豊かになれた人は一握り

 さらに大きいのが見つかったという伝説も、地元では語り継がれている。

「ペーチャンで大金塊が見付かったが、3人が共謀して、鉈で3つに分けた。その2つを枝幸の町に売りに行って、切口から足がついた。3つくっつけたらのし餅ぐらいの大きさになり、今までのうち一番大きな砂金だったろう」――『砂金掘り夜話草』日塔聰、ぷらや新書刊行会、昭和56年

 この金塊は、なんと280匁(1050グラム)もあったそうである。

 しかしこのような幸運な人は、ほんの一握りであったことは言うまでもない。

 多くの人々は徒手空拳のシロウトであり、北海道の寒さに驚愕し、厳しい肉体労働に辟易して、なにも得ぬままに帰国した人が圧倒的多数であったと言われる。黄金を手にすることができた、ごく一部の人々も、枝幸の妓楼、遊郭に散財して、富をなした者はほとんどいなかったとも伝えられる。