果たして翌18日午後6時頃になって、事務所の南方から大熊1頭が現れ、前々夜に侵入した窓に向かって突進してきた。待ち構えていた浜田は銃口を窓から差し出し、熊の接近を待ってズドンと1発放った。狙いは違わずに熊の脳天から左腹部に命中したが、怪力無双の大熊のこと、1発の銃丸などものともせずに、ますます猛り狂って、小屋よりわずか2間のところに迫った。そこで第2発が胸部に命中し、さらに第3発で、まったく撃ち倒した。
そこにビラカナイで富所林吾の死体捜索に出ていた巡査2名が帰って来たので、浜田に助力して熊の腹部を解剖、検視した。すると胃部にはなんらの残留物もなかったが、腸部からは「左右の拇指各1本ずつ、左の人差し指および薬指小指の連続せるものと髪毛の全部を認めるもの残りおり、人差し指には被害前日、松吉常吉が誤って負傷し布切れをもって傷口をくくりおりたるままの残留あり」ということで、まったく常吉は熊の餌食となったことが明瞭となった。さらに事務所の西方2町ほどのところに、常吉の寝臥中着ていた襦袢の引き裂けたもの、および肋骨と認められるものが噛み砕かれ、その他骨片が散在しているのを発見した。
熊は8歳で、身長1丈余、黒色のもので、アイヌの鑑定によれば「該付近にかくのごとき猛悪のもの棲息せざれば、他よりの渡り熊なるべし」という(『北海道毎日新聞』明治34年9月28日より要約)。
思わず自分の左手指を数えたのは、筆者だけではあるまい。
おそらく第1犠牲者の富所も、松吉と同じく原形を止めぬほど喰い尽くされたために、ついに遺体発見に至らなかったのだろう。
大牛のように巨大かつ残忍
こうして稀代の猛熊は退治されたのであったが、実はここに興味深い事実がある。この凶悪事件が発生する、わずか2ヵ月前、頓別村から40キロ西の天塩村にも、恐るべき人喰い熊がうろついていたのである。こちらもまた、通行中の若者を襲い、頭部など、わずかな部位を残してことごとく喰らい尽くすという凶暴なものであった。