ちなみに、駅前の大通りをいくらか進んで南に折れると、「第二公園」というなんだか身も蓋もない名前の小さな公園がある。
昼休みのおじさんが休んでいるようなどこにでもありそうな公園だが、その片隅にはかつて奥羽本線を走った蒸気機関車8620形が保存されていた。
8620形のSLといえば、『鬼滅の刃』に登場したSLと同タイプ。というわけで、第二公園のSLも『鬼滅の刃』風にデコレーションされていた。乗れるブームには乗っておく。何も悪いことではない。
さて、そんな鬼滅の第二公園からさらに東に歩くと、山形の市街地を南北に貫く国道112号にぶつかる。この国道を北に向かって歩くと、ほどなく駅前にも負けない賑わいある一帯が見えてくる。地域の名でいうなら十日町、そして七日町。いまはもう閉店してしまったが、大沼や丸久といった地場の百貨店があったのもこのあたり。
さらに国道をまっすぐ北に進んでいけば、正面には何やら立派すぎるほど立派な建物も見えてくる。
その建物は山形県郷土館「文翔館」といい、1916年から1975年まで山形県庁として使われていたものだ。七日町や十日町の市街地は、山形県庁からまっすぐ下った目抜き通りに栄えた繁華街。明治以来の山形の中心であった。そしてその繁華街を両脇に従える国道は、近世以来の羽州街道の系譜を引く大通りなのである。
物資の集積地としての「山形」の顔
山形の都市としてのはじまりは、江戸時代初期に遡る。戦国時代から東北の雄として名を成した最上氏の城下町。実に57万石の大藩だった。しかし、その居城・山形城は山形駅のすぐ北にある。電車に乗って山形駅からさらに北を目指すと、車窓の西側に立派なお城の大手門が見えてくる。すなわち、このあたりではお城の内堀に接して線路が敷かれたのだ。
ただ、最上氏はほどなく改易されて、以後は鳥居氏や保科氏、松平諸氏などが入れ替わり立ち替わり入り、少しずつ石高も減らされて譜代の小藩になってゆく。幕末の水野氏の時代にはわずか5万石になっていた。
山形藩のように譜代大名が入れ替わり治めた小藩は、武士の定住が進まないため武家色が弱く、代わって町人の町として繁栄していく傾向があるという。
山形も例に漏れず、最上氏57万石時代の広大な武家地は歯抜け状態になり、その一方で羽州街道沿いは商業地として発展した。最上川の舟運も活用できるこの地が、山形内陸部における物資の集積地になったのだ。
とりわけ山形の名産になったのが、ベニバナである。鮮やかなピンク色に染まる染料として知られるベニバナは、江戸時代から最上川と日本海側の西廻り航路を通じて京まで運ばれて、京都の貴族たちを楽しませたとか。
そういえば、懐かしのジブリ映画『おもひでぽろぽろ』にも雨の中でベニバナの花を摘むシーンが登場する。ベニバナの花が咲くのはちょうど梅雨時である。